騒がないでいただきたい、アテネ市民の諸君。
私を死刑に処するならば、諸君は私よりもむしろ諸君自身を害することになるということである。
なぜならば私を告発したメレトスもアニュトスもリュコンも決して私を害することは出来ないからである。
悪人が善人を害するということが神的世界秩序と両立するとは信じないからである。
確かに私を死刑や追放や公民権剥奪に処することは出来るであろう。
しかし、それは禍(わざわい)ではない。
それより遥かに大きな禍は正義に反して人を死刑に処するとたくらむことである。
つまり私が弁明するのは何よりも諸君の為である。
私を処刑する結果、神から諸君に授けられた賜物に対して罪を犯すようなことにならないためである。
もし私を死刑に処したならば、次に私のような人間を探し当てるのは困難を極めるであろう。
即ち私は神から遣わされた者として、誰に対しても家族の様に接近し、徳を説き続けた。
それにつけて私は無報酬でやり続けたその意味を、賢明なアテネ市民の諸君は理解出来るであろう。
また私を告発したメレトス、アニュトスも、
「ソクラテスは高い報酬を貰って偽りの教育をしている」
と、偽者の証人をでっち上げるほど厚顔無恥ではないのである。
それにより、私の行いが神託に殉じる行為であることを説明し難くしているが、私は私の自身の「貧乏」を証拠として提出する
(続く)
****
はい、紀元前に生きた人間を、そのまま現代の価値観で決めつけた言動をしてはいけません。
この場合の「悪」はソクラテスを告発するに足るには動機が不十分であること、にも関わらず死刑判決が出てしまうこと、になると思います。
私は常々
「正義とは善への帰り道」
と説いてますが、すなわちこれは、告発者も青年達も、「被告のソクラテスからそれほどまでに不利益を被っていない。」
ということを指していると思いました。
私見ではソクラテスはアテナイの民主制に疑問を感じ、一石を投じる為に、法廷で弁明することを選んだのでは?と思います。
結局は私的感情をベースとした多数決で他者の命を奪える裁判システムそのものを改革するのが目的かと。
無批判に「アテナイの民主制は最も良識的で道徳的だ」
と思う危険を指摘したかったのでは?と思います。
私は「民意」だと選挙結果を、「宝だ」と9条をかかげるより、大切ならばこそ選挙以上のもの、9条以上のものを生み出すべきと思います