私はポティダイヤ、アンフィポリス、デリオンなど主だった戦に従軍した。
そして私は上官が指定した持ち場を離れなかった。
そして今私が神から授かった持ち場、即ち、愛智者として生き自己ならびに他人を吟味することを、死の危険やその他の恐怖から逃走を計ったならば、私は法廷に引き出されて当然であろう。
神託を拒み、死を恐れ、賢者でもないのに賢者の様に振る舞うのは、神を信じない者ということになるからである。
死を恐るのは賢者を気取ることにほかならない。
私が思うに「死」が幸福の最上であるかどうかは何人も知ることは出来ない。
しかし、人は「死」を悪の最大であると知っているかのように恐れるのである。
これこそ悪評高き無知、即ち自分でも知らないのに、知っているように信ずることではなかろうか?この点においても私は多数の人間と異なっている。
もし私が他者より賢明であるということを前提に語る事が許されるなら、
「私は冥府(ハデス)についてロクに知らないが、また知っていると盲信する者でもないということだ。
しかし、不正を行うことと、神や優れた者に従わないことが悪であり、恥辱であることを知っている。
私は悪が何かを知っている代わりに、幸福であるかもしれない、「死」ということを無闇に避けたり恐れたりはしないであろう!
さぁ、アテネ市民の諸君よ、選ぶがよい。
「諸君は最初からソクラテスを法廷に引き出すべきではなかった」
と宣言するか
「いや、一旦引き出したからには死刑か否かを決めねばならない。
今回は無罪放免にしたが、その代わりソクラテスは人に試問することを止めねばならない。次は本当に死を与えねばならない」と。
しかし、私はこう言うだろう。
「好き友よ、蓄財や名聞や栄誉のみを念じて、智や真理や霊魂を善くすることに少しも気にしないことを、君は恥辱と思わないのかね?」
と。
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はい、私が最もソクラテスを敬愛する部分は「死や死後についてはわからない」との態度を貫いたことです。
ソクラテスは決して宗教活動家の様に「死ねばこうなる」とは言っていません。
ここからは私の意見ですが、死を恐れぬ一番の近道は死を知ることでしょう。
恐怖症を無くす第一歩は、知識を増やすことから始まります。
犬猫を怖がる者は、犬猫の種類から歴史やトリビアでいっぱいにすることです。
勿論、他者の死と自分の死は違うでしょうが、形無き恐れは無意味です。