ソクラテスが説いた
「正義を貫くならば必ず個人を貫け。」
の言葉が今ならわかります。
ブログで哲学と小説を書き続けて約三年。
世の中に蠢く既存宗教の嫌悪は根深く、そのとばっちりで哲学を「言葉遊び」「中傷概念」と揶揄する輩との格闘も四年目に入ろうとしています。
かつての私は自身の中の絶対善(※正義ではありません)を信じ、相反する哲学と信念を持つ方に排他的であり、攻撃的でした。
しかし、全ての道のりは包括者(※唯一神ではありません)への信仰であることを、私自身が知ることで変わりました。
それはブログで繋がりを持った方からヤスパースやアウグストゥヌスを紹介されたこと、私自身がキルケゴールを求めたことが大きいです。
私が性善説を唱えることを欺瞞的に思う方も多いですが、そういう方の多くは善と正義の違いを知らない方だと存じます。
悪人だろうと、罪人だろうと、カルトの教祖だろうと彼等が抱く「自己肯定」を誰が否定出来ようか?
誰もが生まれた時から、生きることを許されているのならば、貴方が今現在に存在していること以上の奇跡があるでしょうか?
ある人は言います。
「結局は性善説も性悪説もないのですよ。」と。
はい、立派な考えと思います。
しかし、その方もやはり善と正義を混同されてるかと思います。
正義は「取り戻すこと」の色合いが強いからです。
不当な扱いに対しての行動や言動への反作用があるからです。
あるがままのフラットな状態に欺瞞も独善もないのなら、それが善でなくてなんでしょうか?
有史以来人間達は、唯一神に絶対善を求め、悪を懲らしめる帝釈天や天使ラファエルやミカエルに「大義名分」と言う正義の勲章を与えました。
しかし、人間は「絶対善」「唯一神」を求めながらも、「絶対悪」「唯一悪」を未だに定義出来てません。
それは善行は「壱」に向かうに対して、悪は多種多様に多岐に渡るからです。
私は繰り返し、「男を侮辱する最大の言葉は『正義の味方』」と主張してますが、それは「取り戻す物が多いほどマイナスを抱えた者」
と言う侮蔑があるからです。
対して偽善者とは「関係」が表す言葉であり、欺瞞も独善も世界で一人では成立せず、欺瞞だ、独善だと弾劾する者の欺瞞と独善は誰に裁かれるんだと可笑しくなるからです(笑)。
だからこそ絶対善の求道を否定する者には共感できませんね。
善の反対が悪であり、正義の反対はもう一つの正義だからです。