史的な指摘。私的文学評論1 ルシファーの情熱 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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人間らしい人間、本能と欲望をありのままに描き、人生の謳歌そのままに綴った、ゲーテ(1749-1832)の「ファウスト」が後世に与えた影響は計り知れない。

「創作悪魔」メフィストフェレスは皮肉屋で気取り屋で、知識と快楽を提供するが、魂をもらうというダークヒーローです。
またお茶目な一面と暴力的一面を持つ様は、思春期の少年のようにも思えます。

教会支配が強く、模範的に生きることが推奨され、聖書を基準に善人、悪人を分け隔てた既存の文学に、ゲーテは正面から対抗しました。
しかし、「ファウスト」よりも150年近く前に、アンチヒーロー、ダークヒーローを描いた作品がありました。

ミルトン(1608-1674)の「失楽園」です。

旧約聖書に書かれたルシファーを、独自の解釈で、ロマンチックな悪魔王サタンと同一として描いています。

物語は、神に反逆の戦いを挑むも、奈落の底に落とされた所から始まります。
なおも傲慢な心を捨てないルシファー=サタン。
地獄の業火の中で、彼の右腕ベルゼバブに有名なセリフを吐きます。

「一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ。すべてが失われたわけではない。
まだ、不撓不屈の意志、復讐の飽くなき心、永久に癒すべからざる憎悪の念、降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ!」(平井正穂訳)

はい、17世紀半ばにこのセリフとルシファーの強烈なキャラクターは一大センセーションを巻き起こし、物語後半では、「悪魔は己の卑小さゆえに神に敗れた」とのメッセージを込めて完結するのですが、前半のインパクトが半端なく、後世の悪魔像、人間像に影響を与えました。

私見では悪魔崇拝やサタニズムや、ニーチェのニヒリズムが何故今の時代に?ってもて囃されてますが、多数派に対する安易なアンチテーゼだけを掲げるのが論外な愚か者だというのが、このルシファーのセリフから簡単に読み取れるでしょう。
「憤怒」のサタン、「傲慢」のルシファーが何故、ここまで読者に愛されたか?それは自身の「意志、復讐、憎悪、勇気」の可能性に賭けたからです。
悪魔王でさえ、魂の未知数を「信じた」からです。
堕天使ルシファーでさえ、大宇宙の法則に逆らえないからです。

そして私は何度も言及してますが、憎しみと憎しみで悪魔は崇拝出来ません。組織は成立しませんから(笑)。
悪魔と悪魔が殺し合わないのは、堕天使達を激励したルシファーに愛と信仰心があったからです。