性善説とソクラテス | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

以前に書いた「学義論」の中で性善説を、「規制を設けなくとも悪事を為すとは限らない」と書き、巷に蔓延する「楽天主義」と混同する様な書き方をして誠に申し訳ございません。
今日はより詳しく「性善説」を掘り下げていきたいと思います。

まず初めに「熊性善説」という言葉があります。

「熊性善説」とは、熊を「怖くない」、「襲ってくるはずがない」と、根拠なく都合良く解釈することで、自らを危険に招くという考えです。
これは性善説を「悪人は居ない」と間違った解釈して、努力や規制、または国家の力なくしても世界の秩序が保つことが出来ると認識する人を諭すのに非常に有効です。

性善説をより積極的に唱えたのは孟子です。
性悪説は、法の規定や聖人による指導監督による「善」への導きを説きました。(荀子がその代表)

しかし、孟子も努力と研鑽による「善」を推奨しています。ただその違いは個人の道徳的な価値観に働きかけ、個人の内自発的な努力を促すことが必要と説いてます。
決して怠惰や無法を推奨していません。
いつの時代も「根拠なきポジティブ思考」がどれだけ危険かは、軽装備の冒険者を想像すればわかりやいでしょう。

そう「内自発的な道徳観」です。これが一番言いたかったのです!
「規則を遵守させたければ、罰則を重くすればいい」
という理論に私が懐疑的な理由です。

ただ、道徳観ほど千差万別なものはありません。
そもそも道徳とは自分が自分に課すルール=矜持であり、統一の物を示せるわけがありません。
倫理とは弱者の為に法や道理を理解の上で敢えて曲げることを言います。

キルケゴールはソクラテスのことを「万人の産婆」と表現しました。
ソクラテスは誰にも何も教えていません。
教えることで大切なのは相手に「思い出させること」なのです。
ソクラテスが産んだのではありません。
ソクラテスは万人に知恵と道徳を産ませる導き手だったのです。

「ソフィーの世界」でも哲学を教えることは出来ないとあります。
相手に想起させるものです。

私は教育というものは個別の道徳観に訴えかけ、個別の事情に沿った指導方法で知識を知恵に変えることが必要だと思います。

世の中にはどこにも「私の取扱い説明書」はありません。