第10話 愛の神
愛の神は盲目だ。
感受性を働かせ、自分の印象と、相手からの印象を把握することである。
こうすれば数多の娘に同時に恋していることが出来るのだ。
いちいち別の性質の恋だからである。
一人を愛するのでは少なすぎるし、万人を愛せば皮相なことになる。
自分自身を知って出来るだけ多数を愛し、愛の力を心に宿らせ、それぞれの愛に適した養分を摂らせる。
しかも意識は全体を包舎している。これすなわち享楽であり、人生である。
僕は「変化」をもたらした。
コーデリアに対して背を向けていたのを横向きに変え、僕の横顔を見せるようにした。
質問もして、話題を彼女の気を引くものした。
すなわち、世人の愚かさを皮肉に話したり、卑劣さや無気力さを嘲笑したりすると、それはそれは彼女はうっとりした。
コーデリア!
もの静かで、しとやかで決してでしゃばりではない彼女だ。
しかし、僕は彼女の中に眠る激烈な情熱を知っている。
彼女は自由でなくてはならないのだ。
彼女は自らの力で発展し、心の弾力を獲得し、世間を評価する力をつけなければいけない。
彼女は盲目的に、無批判に僕の中に取り込まれる様なことがあってはいけないのだ。
傍目からは僕がまるで自分の秘密結社に加入させようとしてるように映るかもしれないが、彼女は自由意志で僕を選ばないといけない。
自由の中にのみ愛は存し、自由の中にのみ楽しみと永遠の悦びがあるのだ。
精神と精神が引き合うように、僕の手のひらに軽く軽く乗る様に僕のものにならなくてはならない。
(続く)
はい、キルケゴールはたくさんの人を愛するとは言ってますが、実際に成功はしてません(笑)。
ただ、この物語の前半にあるように、行く先々での出会いを大切にし、交際や婚約うんぬんでは無く、「トキメキ」「恋心」と向き合っていたのです。
コーデリアを愛していても、町で出会う娘さん達に紳士的に振る舞いました。
コーデリアを目的としているとはいえ、自分の話題(主に農業)に十分に呼応して会話の出来るコーデリアの叔母に惹かれるモノが無ければ会話さえ成り立たないと私は考えます。
きっとキルケゴールには叔母の博識は思いがけない幸運だったのだと思います。
文中の「僕の秘密結社に」のくだりは「新興宗教」に置き換えるとわかりやすいと思います(笑)。
知恵と知識で無知な若者を強奪することはキルケゴールの意とする所ではなかったのでしょう。