学義論9 死生観 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

デリケートなことですが、批判覚悟です。避けて通れないことですから。

「命の大切さ」を子供に伝えたいと切に願う親御さんは、協力や共感、信愛により命の尊さを導き出そうと試みるかもしれません。

しかし、もっと大切なのは、真剣に親子で「死について話し合う」ことだと思います。

本来、「死」は崇高で尊厳あるべきものですが、大切にしすぎるあまりに遠ざけ、忌み嫌い、考えないのが当然になりました。

神(人格神的な絶対神)を信じていなくても、魂や輪廻や死後の世界は何故簡単に受けいれるのでしょう。

私は父母に尋ねた経験があります。(その時は珍しく両親が居ました)

「死ねば終わりと思っている人は、もしもそうじゃなかったとしたらどうするの?
『その後は何もない』と思って死んだのに、その後があったらどうするの?」

と質問すれば、両親ともに返答に困り、
「あんたの言葉で、今からでも少しはましに生きよう思うたわ。すぐ忘れるけど。」
と母は言い、父は
「ホンマやな、どないしょう?今までしてきたことが急に怖なってきたわ。」
とただ慌ててるだけでした。

数々の宗教(カルト、新興含む)が唱える魂や死後の世界も、
「現世をより良く生きる為の説法」

と道徳的な人は教えてくれます。

しかし、完全に「無い」と言いきれないからまた面白いのです。

針の山や血の池地獄は、勿論生きている人間の創作によって命が宿したのですが、誰にも死後の世界はわからないからこそ、「あるかもしれない。」のです(笑)。

「死」は生きている人間が思うことです。
死んだ側の意見は何もありません。

ヤスパースは
「交流の欠如した人間の孤独と、大切な人を失った孤独は根本的に違う。
最初から孤独な人間は喪失を嘆くこともないが、何の庇護もないままである。

しかし、大切な人を失った人間は、その喪失により存在は現実となる。」

と述べています。

そう、「亡くなった」は「生きていた」となるのです。

その人との別離や埋葬だけがその人の存在証明ではありません。
「亡くなったこと」は役所の紙切れが証明してくれますが
「生きていたこと」
は亡くなられた方にとっても大切な貴方しか証明できないのです。

生⇒死はただの科学変化かもしれません。
しかし、死と存在は別物です。

「変化の可能性を含めた今現在の存在」=実存が死により停止、もしくは永遠の固定化となるのです。