一神教(主にキリスト教やイスラム教やユダヤ教)が多神教(主に仏教やヒンズー教)の偶像崇拝(仏像等の形ある何かを拝むこと)を批判する理由に、
「人間の神格化に繋がる」
を第一に挙げることです。
これには権力者が我が物顔で民を支配し、自らの力を神と同等だと言わんばかりに振る舞うことを考えれば想像に容易いでしょう。
絶対的王制等が殆ど壊滅した現代では、軍事政権のトップの肖像画が、「絵画以上の価値」を持つことや、カルト的新興宗教が神や教義よりも「ただの人間の教祖」を必要以上に信仰することを考えれば容易いでしょう。
また、現在、若い世代を中心に能力的に秀でた人間を直ぐに「神」と称する文化も偶像崇拝の悪例かもしれませんね。
(例・「レディガガは神」とか言う人)
一神教の主張としては
「見たことも触れたこともないけど神の姿を描いてはいけない」
ってなってますが、キリスト教は要所を天使任せてますし、イスラムは「アッラー」、ユダヤは「ヤハウェ」と神に名前を付けています。
またイスラムのお祈りの言葉には
「アッラー以外の神はいない」
とあります。これでは多数の神が居ることを前提として、それを否定させてるだけに思えるのは私だけでしょうか?
しかし、歴史を紐解くと唯一神教の国家の方が、遥かに酷い民に対する弾圧や奴隷支配をしています。
多神教の国家は心に
「神様でさえも絶対でない。だから人間も皇帝も絶対でない。」
っていう牧歌的かつ性善説的なゆるやかさがあるんじゃないかと思います。
日光東照宮は徳川家康を、太宰府天満宮は菅原道真を、湊川神社は楠正成を祀ってますが、日本人の誰もが彼らを
「全知全能の神」
だなんて思っていません。
私達は有限で相対的な神様を拝むのです。
死んで立派になった人は仏様です。
最初から神ではありません。
きっと人間は神を定義出来ないでしょう。
唯一神を唱えれても絶対神ではありません。
せいぜい相対的最高神が人間の思索の限界でしょう。
「私は無神論者です。私は無宗教です。」
と言いながら魂や輪廻や死後の世界を信じている人はけっこう多いです。
上記の様な「定義出来ない法則さえも神」
と思うことも可能なのでは?
私はやはり神社神道の八百万の神が好きです。
「学問の神様」「七福神」がいいですね。
絶対神を無理に定義するなら「法則そのもの」になりますかね。
ヤスパースは「包括者」と呼びました