「神に創れた自分」や、「神父と教義に従う自分」では無く、
「感じる自分、考える自分、信仰する自分」
の方が尊いことを近代の賢者達は教えてくれました。
中世からの
「無批判で盲目的な信仰」
はルネッサンスと言う「人間中心主義」によって取って変わられました。
神を信じるからこそ、「神はこうに違いない」と決めつけるよりは、人間は人間に出来る学問や芸術や労働に意欲的になる方が神様の為だ。との考えが段々と主流になってきました。
物理法則の発見や航海技術、火薬や印刷技術等を手にした叡知こそが人の素晴らしさかもしれません。遥か昔に書かれた聖書を解釈するのに没頭するよりは、たくさんの人に役立つ発明品の方が神様も喜ぶかもしれません。
しかし、私達は何を知ることが出来、何を知ることが出来ないのでしょう。
目は赤外線や紫外線間は認識出来ず、耳や鼻は犬に遥かに劣ります。
宇宙の暗黒物質・ダークマターは存在することはわかっていても人間に認識出来ないそうです。そしてそれが宇宙の大部分を構成しているそうです。
「存在することは知覚されること」
と革新的なことを述べたバークリです。しかし、知覚されない存在は?
との問いに対して
「神の精神の中にある」
と何とも古典的で抽象的な言葉で逃げています。
実用主義者のパースは
「信念は行動の規則」
とアメリカ人らしいわかりやすい言葉を残してますが、何と統計学の創始者でもあるのです。
私の敬愛するヤスパースは
「人は統計学の数字の合計で自殺しない。個別の人生に対して死を選択した人達なのだ。」
と述べています。
私が最も敬愛するキルケゴールは
「大衆の一人になるな」
と強く訴えています。
私はどうも経験主義者や功利主義者、実用主義者達の
「選択されなかった側の経験」
を無視し過ぎてるのではないかと思います。
赤ん坊は白紙ですが、男に生まれたら「女の経験」が、次男に生まれたら「長男の経験」が絶対的に不足し、平等では無いのです。
だからこそ他者への共感と想像力が必要で、たかが一人の人間が何を選択し、何を経験するかを完全に取捨選択出来るはず無いのです。
人は未来の展開に対して平等かもしれませんが、過去において平等ではありません。
戦後の日本に英米が蔓延させた「チャンスと可能性」の誇大広告は、
「反省しない、都合の悪いことには不可知(ふかち)」な経験論が根源にあると思います。