人は疑問を持ちました。
「何故、雨が降るのか?」
「何故、冬は寒いのか?」
「生き物は死ねばどうなるのか?」
食卓に並べられた食べ物が無くなれば隣人が食べたことを疑います。
そこに原因と結果があるからです。
しかし、死や天候、人体の事は考えても誰の仕業かわかりません。
「私が雨を降らした」
などと誰も名乗り出ないからです。
だから人は「誰か」を作り出しました。
「何らかの力」
によって、天候が変わり、季節が変わり、生き物に死と誕生を与えているんではないだろうか?と仮定したのです。
作り出された「誰か」は時に「ゼウス」と、時に「ヤハウェ」と呼ばれました。
人間が考えられる範囲内で作り出された「誰か」は生み出した人間の範囲を越えることはありませんでした。
ギリシャ人が考えればその似姿はギリシャ人の姿をしており、日本人が描いたその姿はやはり日本人が考えられる範囲内で描かれた姿でした。
知りもしない姿を、決して認識することの出来ない共通の姿を、同時多発的に偶発的に描くことは不可能でした。
それが人間の限界だからです。
※ギリシャ人そのものを知らない当時の日本人がゼウスの姿をに描くことは不可能ということです。それが出来たら超自然です。
これが「経験」がもたらす作用の一例です。
学問の歴史は、イヤ、人の社会に対する歴史、もしくは社会に対する人の歴史は「絶対」と「経験」のせめぎあいなのです。
「自分の知ってる」と「相手の知らない」
「自分の知らない」と「相手の知ってる」
無限に重なるこの他者との経験のズレに対して、共通の認識で会話する為に「絶対の概念」は対処療法的に、また相対的に有効でした。
それは絶対的な裁判官を「主と呼ばれる者」に任せることで人々は合意し、秩序立った社会生活を営むのに役立ちました。
万人が納得のいく神、宗教、死生観は無いと思います。
しかし、私達はそれらと共に生きた先人達の上に、今を生きていることを忘れてはいけません。
次回は「経験」について詳しく語ります。
その次は「概念上の完璧」を書くつもりです。