意志と肉体の限界 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

医学や心理学の知識に欠けている私にはヤスパースが述べていることをどこまで解釈できているかわかりません。

ですからあくまで哲学的な見地として、しかも「私の哲学」の範囲で述べさせて頂きます。


「意志とは前進する為だけの力ではなく、己自身を意志することである。」

己自身を意志する。

それは必ずしも客観的に認識される「前進」ではないのかもしれません。

自分で自分のことを考えている行為は、他者から見たら「停滞」に見えるかもしれません。

しかし、前進する為に己自身を意志することは

「作戦会議」
かもしれません。
「戦いたければ武器を持て」
です。
自身の武装状態を知ることは新たな前進をもたらすでしょう。

ここまでは一般論です。

で、問題は意志するに当たって

「己の肉体は己自身か?」

との命題が浮かぶのです。

勿論、自分の肉体と別れることは出来ません。
容姿や性別、年齢との時間的、空間的な制約を受けます。

では「私」とは「魂」もしくは「意志」「心」だけの存在でしょうか?

私は
「自分とは肉体の時間的及び空間的制約を受けた『後天性』を含んでいる。」

と考えます。

スポーツや創作活動では
「精神が肉体を凌駕した。」
と良く言われます。
意志だけが「私」であり、「肉体」は「入れ物」なのでしょうか?

しかし、私はその意思さえも肉体の経験により変化をしていく。
と思うのです。

ヤスパースは
「私は私自身である。との陳述は何の意味も為さない。
私自身と言ってしまえば、変化する自分を否定することであり、変化を望まない自分は最早自分でない」
と述べています。

つまり一秒前の自分は「私ではない」
ってことであり、一秒後の自分も「私ではない」

となります。

全て解放されたフラットな自分が存在するなんてのは思索する世界のみに存在する、プラトン的な理想論と思います。