
の著書「哲学」の「歴史」の章を読んでるのですがこれがまた難解なんです(涙)
「歴史的意識と史学的存在は別物である。」
わかりません!
あ~哲学書って一日に10ページも読めたら大したものですわ(笑)。
哲学の勉強よりも、哲学「書」を読む為の勉強に時間を費やして、それと似たような論文や書籍を書き上げるだけなら大学の四年なんて短すぎます(涙)。
だからヤスパースは「哲学が知的遊戯になってはいけない」
と言っています。
で、本題ですが「歴史的意識」とは
「歴史を考える自分を歴史の中に入れること」です。
「史学的存在とは事実関係のみを表すこと」です。
震災や戦争の話を聞いても、勿論、「話す人の主観」が入って当然です。
テレビや新聞が歴史の全てを伝えきれないのは、「話し手の主観」がひとつの要因になってると思います。
しかし、それ以上にヤスパースは
「聞いてる者、学ぶ者の主観」を大切にしています。
これはキルケゴールや私の
「見たい物を見たい様に見ている」
と同じです。
しかし、歴史は自分と全く繋がり(交わり)の無いモノにすればただのファンタジーになり、自分の為だけの歴史にしてしまえば世論煽動のプロパガンダになってしまいます。
(お隣の大陸と半島が悪例ですね!)
つまり宗教の話でも、自分の先祖の話でも「今現在の自分」と結びつけなければ 歴史は歴史でなくなるってことです。
大好きな海外ドラマ
「インディジョーンズ若き日の冒険」

に
「真実を知りたければ哲学科へ行け、事実を知りたければ考古学を学べ。」
ってセリフがあります。
つまり考古学は客観的事実を検証する学問で、個別の感情を汲み取らないから意義があるんですよね。(交通違反の時の警察の態度ですよね。)
日本の報道はこの真実と事実を混同しがちです。
裁判や警察の鑑識は事実関係の立証のみなのに、報道は加害者、被害者の内情を「面白おかしく、わかった様な態度」で「真実の報道」と吹聴する。
それは書いてる記者一人にとっての真実だろって思います(笑)。
震災や戦争には百人、百通りのドラマがあって当然なんです。
そして私達がそれを選びたいように選んでるのです。
即ち、
「あれか、これか」
です。