子供の哲学 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

blogを始めてすぐに
「内容が難しすぎる、いつか子供もわかる哲学を書いて下さい。」

と言われ一年以上が経過しました。

決して忘れてたわけではありません。

「子供の哲学」

ってのを考えているだけでこんだけ月日が流れました(涙)。

結論から言えば
「中学生になれば『ソフィーの世界』を読んで下さい。」
ってしか言えません。

で、本題ですが哲学は大人の哲学者が書籍を出版したり、大学で講義したり、学校で倫理や道徳を学ぶすことで哲学を身につけることができます。

しかし、こと「子供」に限定すると実は問題は複雑化します。

倫理や道徳は「交通安全教室」や「電車で席を譲りましょう」や「動物を可愛がりましょう」から学べます。

しかし、それらを子供自身が「哲学」と認識するには「理性」と「客観性」が必要になってくるのです。

勿論、「絶体」を定義する「形而上学(けいじじょうがく)」が哲学の全てではありません。
しかし、頭で考えて結論が出ることと出ないことを理解し、考えている自分を客観的に観察できなければ哲学は語れません。

その壁がある限り「子供の哲学」は成立しなくなるのです。「ソフィーの世界」の引用になりますが
「引力がある」や「宇宙に空気がない」は理性でわかることです。
「世界の始まりはどこから?」とか「神とは?」ってことは理性で考えても結論出ません。

発展途上である子供は自然科学や倫理、道徳の分野を学ぶ段階で、そこに哲学を用いるかどうかの判断がとても難しいのです。

簡単に言ってしまえば「生き様」を結論付けるには若すぎるのです。

イメージとしては村の長老が子供達を集めて「人間とは」とか「人生とは」を語っているかんじですが、聞いてる子供が哲学的素養を持ち合わせていない限り難しいです。

でも、「哲学は日常」が信条の私は何とか子供と哲学の交わりを考えてみました。
そこで結論に至ったのが
「社会を意識する時」
です。ヤスパースは「真理は複数から成り立つ」と述べた様に、子供が「他者」を認識した時に哲学が始まると考えてみました。

例えば子供がぶつかる社会の壁に
「捨て犬、猫を拾ってくる」
ことを思いつきました。

拾う、拾わないの是非ではなく、その行為により、子供が命と社会を考察することが哲学と思います。

今回もまとまらない内容失礼しました。
寧ろ皆様に「こんな所に子供時代に哲学を感じた。」
ってこと教えて下さい。