1 他人を語らせる為の沈黙
2 知っているかのように振る舞う為の高慢の沈黙
3 事実を確かめずに、交わりなしに援助する同情の沈黙
4 侮辱的に関係を断つ為に使用する沈黙
ヤスパースは上記4種の沈黙は真の交わりにおける沈黙ではない。
と言っています。
1は策略、駆け引きで、2は功名心、3は相手の心に入り込まず、自分の心を開示しないで助けることは同情である。即ち、聞くべきことを確かめない時に生じる沈黙です。
4は相手を怒らせて別れるための切り札としての沈黙です。
皆様、この様な沈黙の濫用は自己自身の冒涜(ぼうとく)ですのでやめましょうね。
では真に自己自身である者同士における沈黙は?
それは交わりにおける自己生成の延長上の沈黙です。
「相手の沈黙に気付けば、共に語るのを止め、率直に打ち明ける時が改めてやって来るまで待つ用意ができているのだ。」
とヤスパースは述べています。
互いを了解し合えてるから、相手の沈黙さえも心地よいのでしたね。
そうでなければ数多に語られる愛の言葉の中に、二人で居ることに寂しさを感じるでしょう。
奈良時代くらいの日本では、会議における誰かの提案に対して、声を上げて賛成しない限りその提案は否決されたそうです。
黙っていることは反対の意思表示という文化があったのです。
現代における「沈黙は承認の証」は西洋の専制君主文化から来たのかもしれませんね。
権力者は都合良く大衆の沈黙を肯定とみなしたのでしょう。
それは声を大にして反対と言うより、無関心が最大の反抗ということに目を向けたくないからかもしれませんね。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心ってやつですね。
今日もお付き合いありがとうございました。