ヤスパースが語る愛 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「実存的な交わりなくしてはいっさいの愛は疑わしい。」

ドイツの哲学者カール・ヤスパースの言葉です。

自己自身でない者は真実の愛で愛せないし、自己自身ない者からは愛されない。

ということです。

自己自身である為には前述の様に、他者の理由に耳を傾け、問いかけることで自分を語り、絶え間なく自己形成を続けることです。

また、「愛は永遠である」と誰もが思うでしょう。
しかし、ヤスパースは「愛の運動は時間の制約を受ける」
と当たり前のことを言ってます。

そう、愛を原動力とする行動、言動、内的行為は生きている人間が何かをする限り時間と空間の制約を受ける、当然のことです。

「愛してる」という言葉は空気の振動で聴覚に届く「音波」です。
「触れ合い」は接触であり、「体温」であり、空間の閉鎖です。
それに意味を持たすのは自分自身です。

またヤスパースは

「愛が現実である限り、交わりは止まずその形態を変えねばならない。」

と述べています。

人と人が愛を持って交わる限り、変化しなければならないということです。

「川の水は常に流れ続けているから、同じ川を二度と見ることは出来ない。」

ってのと同じです。
人間が時間の制約で生命活動をしている限り、愛そのものは不滅で永遠であっても、愛故の行為と言動は形を変え続けなければならないってことです。


まだ20%くらいしか今の本を読めてませんが、ヤスパースにはプラトンの「永遠のイデア」の否定が多く見られます。

それはキリスト教的な「絶体的な善」や「永遠の愛」や「生命の超越」の否定にも感じます。

「不滅の愛」や「普遍愛」は私も存在すると思いますが、それは思索して理想の概念を抱くことは出来ても、肉体的な制約と時間軸で生きている限り、「愛の産物」は有限ってことだと思います。

自らの有限性を知った上でベストな行為を模索する。それを心に描くことが永遠の愛だと思います。