「私は押しつけがましさを敢えてし、他人に近づきすぎる。しかし、このような危険な瞬間がなければ、どんな心の接近も成立しない。」
う~ん、耳が痛い言葉です。
人見知りで友人を必要としない私には、かなりの難関です。
友達と外で遊ばないで本ばかり読んでいた私にはヤスパースの
「みずからを浪費せず、恥ずかしさのあまりに後にひかねばならぬことを一度も経験したことのない者には、実存的交わりはほとんど成就しない。」
の言葉が心に響きます。
しかし、上記の言葉は躊躇なく人の心に飛び込める人にも同様です。
何故なら考えなしに入り込んでも、「挫折」を味わうことがなければ、考えた結果行動しないことを選択した人と大差がないからです。
「尊厳を喪失した状況でそれを克服した時にこそ自己自身になれる。」
とヤスパースが述べています。
恥ずかしい思いを覚悟しなければ人としてそれ以上の飛躍はないと訴えたいのでしょう。
「冷淡に保たれている臆病な遠ざかりは人間から人間へと到る道をけっして開かない。」
傍観者として批評に徹するのはホントに楽ですよね。
ネットの発達により誰もが意見を述べやすくなり、「当事者」の概念が希薄になっていく気がします。
私が毎日更新を心がけているのは、
1 哲学は日常であるから
2 過去の賢者の評論に終始せず「自分の哲学」を伝えたいから。
3 日々変化する日常の中で、膨大な私の言葉から「貴方の哲学」を見つけてほしいからです。
そして恥ずかしさ覚悟で今回私が語るのは、私とヤスパースとの見解の相違です。
私は
「挫折なくとも自己の本質を最初から獲得している場合もあるのでは?」
との命題です。
必ずしも敗北のみが人を強くするとは限らず、勝利でも人は内的行為により飛躍できると思います。
この辺りが多神教の牧歌的なスタイルと、一神教の厳格さで育つことの相違かもしれませんね。