「孤立化すれば私の独立性は空虚なものとなる」
ドイツの哲学者カール・ヤスパースの言葉です。
今日は当たり前のことを最もらしく語るつもりです(笑)。
反抗とは対象者が居るから反抗です。
反抗する相手が居るから成立します。
独自性や独立性は比較なのかもしれません。
極論では「自立」さえも他者の存在を前提としているから成り立つ言葉かもしれません。
完全に関係性を絶って、オートマチックに自分が「作動」するだけならば「自立」は「自律」になるだけかもしれません。
王は国民が居るから威張れます。
島に一人、町に一人、世界に一人でも威張れるのでしょうか?
その時貴方は無生物や大自然を対象にしてでも反抗を選択するのでしょうか?
それとも人との関係性が断ち切れたことで謙虚さを取り戻すでしょうか?
全体の中に内包されているから反抗が成り立つことを忘れていませんか?
家族だから逆らい、生徒だから反抗し、国民だから反逆する。
「枠」から出れば全ては無意味こと?
その反抗は全体を自分の為にだけ変えてほしいと望むからでしょうか?
それとも貴方は「統治者」の宿命を背負えるのでしょうか?
それとも孤立化が望みなのでしょうか?
この世界は貴方が見たいものを、見たいように、見たいだけ見ている世界。
しかし、それは相手も一緒なのです。
例えば戦争を止めるのは簡単です。
前線で「貴方が」戦うことをしなければ良いのです。
「そんなの無理。敵や味方がそれを無視したら意味がない。」
と思うでしょう。
しかし、それは客観視して全体を見ている貴方の意見です。
貴方の心と身体に命令するのは貴方しかいないのです。
世界にただ一人の「自分」が世界にただ一つの小さな反抗をする。
それを同時に全ての人間が予定調和的に(相手を意識せず自分の理由だけで)それを実行すれば、
人が漠然と定義する「奇跡」と呼ぶものが起きるでしょう。
プラトン的な普遍のイデアは好きではありません。
しかし、絶体的な(誰からも否定されない)「善」ではなく、人が「善」だろうと思うその資質や可能性、「概念そのもの」は唯一の永遠だと思います。