景色が違って見える。
ありふれた通勤経路をこの娘と一緒に歩いてるだけで世界が変わってみえる。
「楽しい」
ただ単純にこの言葉を噛みしめている自分は何年ぶりだろう?
不思議と会話は途切れなかった。
意識的に彼女の個人情報は聞こうとしなかったし、また彼女を一切それには触れさせようとしなかった。
だが、それでも十分に僕は楽しかった。
例え「ありす」が僕を不幸のどん底に突き落とす悪魔だとしても、恋人ではなく、メイドとして僕に付き添っているのだとしても、今はただ会社に到着するまでの時間を楽しみたかった。
「で、何でメイドがメイド服来てないんだ?」
「だってこの方が動きやすいし、人前でも目立ちませんよ。」
彼女はTシャツにジーンズ姿だった。
どうやら真のメイドはファッション性よりも機能性重視らしい。
「人目を気にする」
突然人の家に上がりこんでメイドの押し売りをした娘が「人目を気にする」ってのも、「ああ、これが現実なんだな」と思い知らされる。
そして現実は楽しい一時を一瞬で奪い、会社に着いた自分は彼女と離れなくてはいけない。
「それでは『行ってらっしゃいませ、ご主人様』これでいいんですよね?」
「あぁ、どうせならもっと自然にな」
「はい、それでは家の鍵を貸して下さいませ。
ご主人様が帰ってくるまでに、お掃除に洗濯、夕食を作って待ってますわ。」
屈託のない笑顔に負けた。
すんなり鍵を渡しながらせめてもの抵抗をする僕。
「消えたかったらいつでも消えてくれ。
但し鍵はポストにな。」
「はい、帰ってきたらきっと驚きますわ。
これ、私の番号です。帰る前に必ず連絡下さいませ。」
彼女はそう言って来た道を帰っていった。
バカだな僕も…。
「鍵を渡さないで別れを告げる」
と言う最大のチャンスを自分から逃した。
しかも、彼女は鍵を握ってから自分の携帯番号を渡した。
全ては計算済みだ。
僕の出勤前を狙ったのも、同伴して会社の場所を憶えるのも良し、一人で家に居座るのも良しの、どっちに転んでも得がある選択だ。
僕が会社を突然休めない人間と知っているから!
よく考えたら、朝食に買ってきたパンってのも、僕を遅刻させない為に手料理を一から作らなかったのかも…。
彼女が恐ろしくなってきた。
だがそんなのはどうでもいい。
問題は僕が「ありす」に恋をし始めたことだ。
この恋が成功でも失敗でも
「山田太郎(仮名)」
の思うツボだ。