第一次世界大戦が終わり、アドルフは警備兵の任務についていました。
そして任務の傍ら、退役を希望する兵士の面接官もやっていたのです。
この面接官と言うのは、退役を希望する兵士が「政治的忠誠を持っているか?」を問いただすのが役目でした。
つまり共産党か敵国のスパイかを見抜く役目です。
この任務がアドルフの人生を大きく変えます。
相手の主義主張を見抜くのにアドルフが用いた手段は
「自分が主義主張することでした。」
アドルフに演説の才能を見出した上官は、彼に大学で政治学と弁論術の講義を受けさせたのでした。
ある日、ある教授が「バイエルンとオーストリアの連合国家の必要性」
と言う講義を行っていると、堪えきれなくなったアドルフが反論し、演説を始めました。
あっという間に教授を言い負かし退散させたのです。
これがナチスの偉いさんの目に止まり、トントン拍子で反ユダヤの大物、
ディートリッヒ・エッカートに逢えるまでになりました。
エッカートはアドルフの師匠であり、出資者であり、父親役でもありました。
アドルフは彼によりトレンチコートを初めて着せられ、
「紳士の振る舞い」
を学ぶのでした。
学歴と家柄の無いアドルフを支えたのは演説です。
ヒトラーと言えば長演説と連想するかもしれません。
しかし、皆様がイメージするヒトラーの長演説は、一般労働者向けで、知識者階級や上流階級には酷く無口で用件だけを端的に伝えたそうです。
彼は民衆の心を掴むのが得意でした。
第一次世界大戦では飛行機や戦車はまだ重要な戦力では無く、歩兵が中心でした。
しかしアドルフは選挙演説に戦車と飛行機を用いて国民にナチスの真新しいイメージを植え付けるのに成功しました。
また、彼の目に止まったのはテレビです。
彼は20世紀最大の発明品に最初に注目した権力者です。
なぜならば
「世界初のテレビ放送はヒトラーの演説」
だからです。
後にエッカートは死の間際、アドルフ・ヒトラーについてこう語っています。
「彼は踊るだろう。
だが音頭をとったのは私なのだ。」
と。
この言葉が不気味に響きます。
そう、アドルフは踊り続けていたのです。
初出 20120809