哲学 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

何の冠も無い「哲学」というタイトルの本を書いたヤスパースさん
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ほどではありませんが、今日は哲学そのものについて書くことにしました。


人間を人間足らしめる理由に、
「言語、道具、火が使えること。」
と歴史の授業で習いました。
しかし、近年になり、チンパンジーは道具を使い、イルカは会話することが知られています。
では、人間が動物と決定的に違う所は?
それは
「死生観」です。
人間だけが他者の死を客観視して「埋葬」をします。
「生きている自分」と「死に行く自分」を認識出来るのは人間が人間足る所以です。

また倫理、道徳、信仰心を持っているのも人間だけです。

古代の考えでは
「人間だけが理性的に生きて、動物は本能で生きる」
と言われてましたが、人間は本能や欲を捨てることは出来ません。四六時中、理性的に生きることは出来ません。
そして人間だけが
「死の不可避性、能力の不可能性、道徳の不完全性」
と生きていかなければならないのです。
だから人は完璧ではない。そのことを知っているのも人間だからです。

キルケゴールはそれを絶望と呼びました。
ニーチェは神をいないと想定して、自身の超越に意義を見いだしました。
ヤスパースは「限界状況での他者との関係性に、自分と世界を包み込む『包括者』を見いだしました。
ハイデッガーは「生の中に死を取り込め」
と言いました。
サルトルは「実存は本質に先立つ。」との言葉を残し、神がいないなら私達は理由も無く作られたことになる。そうではなく、まず、私達が存在し、存在理由は後からついてきた者だと、無神論の立場から主張しました。
これらのキーワードは「挫折」です。
つまずきによって本質が見えるのです。
ここが英米の経験主義、功利主義、実用主義との大きな違いです。
成長と成果のみが重視されると完全性が求められ、人間軽視となります。他者の挫折を想定しないからです。
結果を重視し、手段と行動の自由を標榜する実用主義者達と、挫折によって自認できる内心の自由を求める実用主義の自由たは大きく違います。

自由、神、そして自分さえも…。これらの否定は「哲学の死」でしょうか?
哲学者の為だけの哲学では、能や狂言の伝統芸能と同じですよね。
倫理や道徳は市場原理の足枷でしょうか?
「少なくとも存在を否定されることで哲学は存在する」byヤスパース