「独りで生きる」ことに対する反証と弁証法 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

blog仲間の「雨の国」さんから、
「生も単独なのでしょうか?」
と言うとても意義深く、残りの人生を費やしても構わないくらいの命題を与えられました。
で、今現在の私が最大限に考えて結論を出して見ることにしました。

この世界は貴方の脳内で見たいように見ている世界。

網膜に他者と言う登場人物が踊っている映像が映し出されているだけ。

親も恋人もテレビの中の人も、スクリーンを飛び出して貴方と同じシネマを見ることは出来ない。

何故なら誰も貴方の心の声と会話することは出来ないのですから。
そう、自分の脳内の世界を他者と共有することは出来ないのです!

しかし、これは双方向性と言う落とし穴もあります。貴方も他者の脳内に、他者の心の中に入れないのです。
貴方が勝手に思い描いた他者の心境が、他者が本当に思ったのとは違うと言うことです。

ここで重要なのは自分が思い描いた他者と、他者が思い描いた自分とは相互に違って当然なのです。
だからこそ、共通の体験を重ねることにより、現実に存在する「あなたとわたし」をリアルタイムに更新して行くのです。
「ともに笑い、ともに築き、ともに選び」
の気持ちですね。
「同じ体験をすることは、相手に自分を刻み込む最も有効な手段」
かもしれません。

だからこそ、たまにしか会わない親戚のおばちゃんは、幼い自分の成長を大袈裟に喜び、暫く会っていなかったかつての恋人は己の変化に驚愕するのです。
それは「相手の中のあなた」が更新されてないからです。


話は変わり、
「赤ちゃんは一人で生きられない」
と言いますが、
独力で生きることと、社会的な関係性を破棄することは別なんですよね。
私は親の為にミルクを遠慮する赤ちゃんを知りません(笑)。
それは親の力がなければ、独力で生きられない証ですが、赤ちゃんが社会を持たない理由でもあります。
泣けばミルクが手に入るからです。
泣いても手に入らない経験をしてこそ、考える力が備わり、自分の力で網膜に他者を登場させるのです。
世の中にはチンパンジーが虎を育てるこんな社会もあるのですけどね(笑)。
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教師は「一人で生きたければ無人島に行け」
と説教しましたが、無人島に行ける奴が教師から説教されるかい!中学一年の春でした(笑)。
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社会は己の鏡