鳥は待っている。
鳥は固く信じている。
全ては適当な時に起こると言うことを。
その為に鳥は沈黙している。
百合もまた知っている。
全ては適当な時に起こると言うことを。
百合は「いつ春が来るであろうか」
などと性急に問いかけはしない。
或は「今年の夏はどうであろうか」
などと語りはしない。
鳥や百合の沈黙は何を雄弁に語るのだろうか?
それは神への畏敬である。
キルケゴール「野の百合、空の鳥」
より一部抜粋。
「あれか、これか?」や「死に至る病」
ほど脚光を浴びてない作品です。
純粋にキリスト教的な作品であるこの書は、百合や鳥のように、
「過去や未来に憂いを持たないように生きなさい。『全ては適当な時に起こる』から。」
とのメッセージを込めています。
「沈黙が雄弁に語る」
はマザーテレサにも通じる表現であり、マザーは
「祈りの沈黙こそ、神との無限の対話である。」
と説いてます。
確かにわたくし達はテクノロジーの発達により、
「いつ春が来るか?」
を知ることが出来ました。
しかし、決して忘れてはならないことは
「私達が春を来させることは、未だに不可能である」
と言うことです。
感情や理性に左右されても、わたくし達は大自然の法則には太刀打ち出来ないことを知る、それが神への畏敬です。
そして神への最大の畏敬は
「自己は自己自身となり、今を生きる」
ことです。
キルケゴールがスピノザ的な自然=神を一部引用してて驚きました。
これはキルケゴールの作品のごく一部ですが、キルケゴールのこんな部分もあると言うことを知っていただけたら幸いです。
「野の百合、空の鳥」
この作品も、もっと時間をかけて解釈してblogに上げていきたいです。
明日はイタリアの敗因について書きたいです。