法治国家と罪 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

わたくしがどこまでも敬愛するキルケゴール
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ですが、彼と決定的に相入れないのが、キリスト教です。

キルケゴールは言います。
「キリスト教に於いて罪の反対は信仰である」

「異教に於いて罪の反対は徳である」

と説いてます。
キリスト教的な考えだと

「人間は誰でも罪を犯す。
だから神の前で許しを乞う為には信仰しかない。
よって罪の反対は信仰である。」
となります。
しかし、異教世界の考えは
「罪を犯すのは悪辣な精神が原因である。
高貴で高潔な精神は罪を犯さない。
高潔な精神は徳が高い。
よって罪の反対は徳である。」
との考えです。

私はやはりアンチキリストです。
絶対者に対して、無批判にただ信仰することにどうしても価値を見出すことが出来ません。
死後の許しよりも現世の徳を大切にしたいです。

しかし、現代の法治国家は急速に信仰と徳の寿命を縮めました。
何故ならば専制君主は常に神の下にいたのです。
専制君主が君臨することにより、民衆は常に神を意識していたのです。

しかし、現代社会の君主は「法」です。大統領ではありません。
皇帝に背けば命がなかった時代でしょう。
そして、積極的に忠義を尽くせば見返りのあった時代です。
では、現代の「法を遵守する」とは?

もう、お気づきですね?
そうです、法治国家に於いて君主である「法」への忠誠心は何の見返りもないのです。
法を破れば罪となり、罰を受けますが、法を守って褒められるのは園児までです。
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法を守る事に信仰も徳も必要ないからです。
法はただ無批判に守るだけです。
だからこそ罪の対義が曖昧な時代になるのです。

太宰治は「人間失格」の中で

「罪の反対は罰なのでは?」
と説いてました。

罰則があるから法があり、罪となる。
罰があるからこそ、社会契約が成立し、法は効力を発揮する…確かに。

しかし、そこには「堕ちない為」
の国家であり、社会である。
高みを目指すのはやはり信仰か徳を積むことだと思います。
そして貴方の君主は貴方自身だと思います。

まとまらない文章失礼しました。
倫理と道徳で統治される世界を目指すわたくしでした。