
ヘーゲル(1770~1831)

の哲学を批判しました。
どのように批判したかの前にまずはヘーゲルの哲学を。
一言で言えば無味乾燥なんですよ。とにかく。
杓子定規で人間を定義して、残した言葉が
「哲学とは考えることを考える学問だ」
と言ってます。
確かにそうかもしれないけど、そうでない部分にこそ、哲学の意味があるのに!って思います。
ヘーゲルは歴史の「流れ」を重要視します。
彼はまた、集団や組織を重要視して、「個人よりも国家や社会の方が価値がある」とまで言っています。
世の中の流れとは、ひとつの定義に対して否定しようとする。
それに対してぶつかりが生まれ「合意」と言う修正がされより良く発展する。これこそが歴史が持つ性格、即ち「世界精神」だと述べています。
確かに。歴史は常にベストを求めて結果を出し続けている。と言えるでしょう。それは否定できないでしょう。
しかし…それが私の生活に関係ある?
「だから哲学は敬遠されるんです!」と私は言いたい!
ここでキルケゴールの登場です。
キルケゴールは何よりも先ほどの「私の」を重要視した。
キルケゴールの有名な言葉に
「この世の中は私が歩き始めた時に、創られている」
です。
自分が「見たい」と主観的に思うからこそ見えて、考えるからこそ世界は広がる。
「客観的」が「主観的」に上回るわけない!ってのがキルケゴールの考えです。
「この世はあなたが見たい物を見たいように見たいだけみている」by SPA-kです。
歴史の流れで定義されることよりも、今現在、一人、一人が人生を謳歌していると言う「実存」の方が何よりも重要ではありませんか!
未曾有の震災で多くの命が犠牲になりました。
しかし、「何千人亡くなりました」と人間はただの「数」ではありません。
そこには個人、個人の人生があり、ドラマがあり、思い出と共に何千通りの「死」が存在しているのです。
津波の高さよりも一個人の死の重要性の方が遥かに大事なのです。
「わたし」から世界は始まると言うことを皆様、どうか心に刻んで下さいね。
そしてキルケゴールが提唱した主観的に生きると言うことを実践して下さいませ。
追記 「国家は個人に勝る」と言う考えはナチスに受け継がれました。