戦国時代の傾者にて浪人の前田慶次

と上杉家重臣の直江兼続は莫逆の友と呼ぶのに相応しい仲でした。
今回紹介するのは関ヶ原の戦いで起きた二人の友情物語です。
上杉家は西軍として戦いましたので、東軍が勝利し、家康が治める天下となった今、敗者としての裁きを受けることとなりました。
慶次は浪人として上杉家に従軍しました。
敗北したものの、獅子奮迅の慶次の活躍は世に広まり、沢山の大名がこぞって慶次を配下にしようと誘いました。
中には2万石で慶次をスカウトする大名もいました。
しかし、慶次は全ての誘いを断り、ただ友人の兼続からかの誘いを待ってたのです。
上杉家にずっと居たいなら、戦が終わっても居座れば良かったのです。
しかし、慶次は自分が居ることで、敗戦した上杉家の財政を圧迫したくないと、戦が終わると同時に再び浪人に戻ったのです。
そして待ちました。兼続の方から自主的に自分を誘いに来るその日を。
そして先に裁きが出ました。上杉家は会津から米沢に国替となり、大幅な減収となりました。
そして兼続は来ました。
「2千石。それが限界だ。」
それは巷の慶次の評価からはとても低いものでした。
しかし、上杉家としては精一杯の額でした。
慶次は無言で頭を下げ、
「手前(私は)、これより一夢庵(いちむあん)ひょっとこ斎。傾き者より風流に生きん。」
と髪を下ろし、坊主頭になりました。
そして、上杉家2000石の家臣となってからは二度と傾くことは無かったそうです。
傾く(かぶく)異風な出で立ちを好み、死を恐れずに自らの命を権力に屈する事なく生きた若者。
ツッパリ、不良の同義とされるが死をかえりなさい覚悟に於いても大きく異なる。
わたくしも友情の根底は信じること、そして愛無き友情は存在しないと考えます。
愛は広く深く、形を変えて愛ですから。