
大河ドラマの主人公にもなった有名な人です。
上杉家の軍師として若くして才能を発揮した彼ですが、歴史好きに限らず彼を有名にしたのが

これです。
兜に掲げられた「愛」の前立てです。
勇猛果敢な言葉や儒教に関する言葉を掲げることが多かったこの時代に「愛」とはなんてロマンチックで近代的な武将だと思われて当然でしょう。
しかし、ここに疑問が生じます。
そもそも当時の日本に「愛」の概念は無く、キリスト教宣教師達が「Love」の意味を伝え様にも該当する訳語が見つからず、後になって乗馬する時に馬を「愛撫」するから「愛する」と言う言葉を作ったのです。
では何故、直江兼続は「愛」と言う言葉を使用したのか?
一説には「仁愛」の精神は広く浸透していた。と言うものです。
しかし、私はもう一説の方を信じたいです。
それは、直江兼続は自らを「愛染明王(あいぜんみょうおう)」の化身と称し、その頭文字の「愛」を前立てに使用したからです。(仁愛の精神なら「仁」になるはず)
上杉謙信は毘沙門天の化身と称したり、数々の戦国大名が、戦争の神様の磨利支天(まりしてん)の恩恵に授かろうとしたりしていた時代です。
兼続が愛染明王の化身と称しても不思議ではありません。
では愛染明王とは何の神様か?
実は何とも素晴らしいことに、
「煩悩を徳に変える神様」
なのです。
「煩悩は捨て去るもの」が通例な時代です。
しかし、
「煩悩を捨てきれないのが人間の本性」
として受け止め、現実的にその欲を人徳に昇華させる。
これが愛染明王のご利益です。
兼続はその愛染明王の化身と称したのです。
煩悩があるのが人間。
聖人や神様、仏様に成れないなりの人徳を身につけよと諭す兼続が大好きです。

彼の一生は家康の策略に対してあまりに高潔な対応をした為に大きく変わります。
文字どおりの「愛」以上に「義」に生きた兼続。
本当に彼がLoveの精神で生きていたら、関ヶ原の戦いも違う結末になってたかも知れませんね。