でも自分がバービー人形になるのは最低だわ」

ソフィーのセリフです。
ソフィーの世界でも哲学者キルケゴール

は何よりも「考えて、選択する自分」から全てを思考しています。
「近代の都市社会では個人は大衆の一人になってしまう」
「大衆の一番の特徴は無責任なおしゃべりだ」
「さして深い思い入れもないのに、みんなが同じことを『そう思う』だの『そう信じる』だのと言うことだ」
と解説するアルベルトに対して、冒頭のソフィーのセリフでした。
またキルケゴールは仏陀と非常に似た見解を示してます。
まず仏陀の話から。
「毒矢に刺さったものは毒の種類や矢の形、飛んで来た方角を気にもしない。
手当をしてほしいだけだ。」
これに酷似するキルケゴールの話は
「池に落ちたら、溺れケースかどうかなんて関心ではない、生きるか死ぬかだ」だからこそ、
「神は信じることによってしか近づけない。
知識で絞りだした神なんぞ、溺れた時の 池の知識と同じだ。
まず『自分が』世界を、神を、自分を、溺れている池をどう見るかだ。」
と述べています。
故に真理は主観的だと述べています。
キルケゴールは痛烈に、
「キリスト教を信じることはイエスの生き方をなぞらえるに過ぎない。」
「そもそも人はたった一人で神に問いかけねばならないのだから」
久しぶりのキルケゴールにわたくし自身熱くなってしまいました。
存在論を語ってるのも自分。問いかけて、その答えを出すのも自分です。
「何か変わりにトイレ行ってきて」
の冗談から人生を味わい深く楽しむ方法が隠されてるのかも知れませんね。
追記 「池で溺れたら~」の下りは「こち亀23巻」に同じ様なセリフ回しがあり、笑えます