今はキルケゴールの原書を図書館で借りて読んでます。
しかし、難解で退屈で長くてくじけそう。
その中で理解できた部分を。
「芸術の中で最も理念が反映されにくいのは音楽だ。
そして詩こそが最も作者の意図が反映される。」
う~ん、確かに。
言葉はその通り、作者の理念を文字通り「伝えれば」聞く側も理解できる。
絵画や彫刻も、何を伝えたいかは解る。
しかし、音楽となると私たちは「演奏を聞くことしかできない」
習いたての少女のウ゛ァイオリンからどれだけの「理念」を感じるか?
詩とは呼べない日記の様な散文の方が伝わるのだろう。
「演奏に理念を込める」
には三種の問題がある。
1 演奏者が技的に演奏力を有する。
2 演奏者が理念を把握している。
3 聞き手が聞く準備が出来ている。
これで五感の中で聴覚は如何に無防備、とりわけ悲芸術的なものに対して無防備である。
食べない、触れない、見ないは能動的だが、咄嗟に聞きたくない音だけ削除するのは不可能だ だから音楽は美しくある
キルケゴールは大胆にも
「感性はキリスト教が作り変えた」
と述べてます。
ギリシャ哲学は
「自分に足りない部分を求める=エロス」を大切にします。
しかし、キリスト教は
「愛は神に捧げるもの。理性的に生きることを一番として、その感情を乱すのは悪魔の諸行(デモーニッシュ)と考えられました。
これが「感性はキリスト教が作り直した」の理由です。
人間らしい喜怒哀楽さえも、神を基準に考えるから不思議です。
しかし、どんなに理性的に感動を抑えこんでも、人々の心を揺さぶる人間がいる。天才の出現である。
この理性から解放されることが許される天才はユダヤのメシアの概念に当てはまると思うのは私だけ?
とりあえず次回は哲学とキルケゴールを掘り下げたいです。