ギリシャとギリシャ哲学の斜陽 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

紀元前146年にローマ共和国にギリシャは完全に滅ぼされてしまいます。
ではその時を同じくしてギリシャ哲学も死んだか?
否、私はもっとそれ以前にギリシャ哲学は斜陽を向かえていたと考える。

すでに紀元前4世紀にはギリシャはマケドニア王国の属州となってます。しかしポリス(小規模民主都市)ごとの自治は任されていました。
この時期こそ私は最もギリシャ哲学が輝いていた時代と考えます。
アカデミアと言う大学で、
イデア論を唱えたプラトン(前427-前347年)は「哲学を学問にした人物」と考えます。
そのアカデミアの弟子にはアリストテレス(前384-前322)がいました。
彼は何とマケドニア人だったのです。
1. 稀代の天才がマケドニア人だったこと。
2. 彼がプラトンの弟子になったこと
3. 彼がマケドニア王のアレクサンダー大王の家庭教師になったこと

これこそがギリシャ哲学の滅びの始まりと考える。

プラトンのイデア論は何度も解説してますが難解です。
「この世は仮の姿で、感覚は変化し、存在すべてはイデアの影である。
例えば椅子を思い浮かべましょう。ベンチやひじ掛けつき、パイプ椅子、様々な感覚で思い浮かぶのはイデアの影だそうです。
しかし皆が共通に思う『椅子の範囲』は同じなはず(道化でない限り)」
これこそ真実界に存在するイデアだそうです。

しかし、マケドニアの天才は師匠を批判します。
「花は花であり、それだけで真実だと。真実を引き出すのは個体ごとの可能性による」
この考えにより
「万学の祖」とアリストテレスは呼ばれます。
彼は「学問に哲学を持ち込んだ」のです。
アレクサンダー大王死後、マケドニア人のアテナイに於いての迫害が始まります。アリストテレスも大学を終われます。
しかし、この後に続く哲学者が出てこないことと、約450年後にギリシャが滅亡するのが無関係でしょうか?
更にやっと約400年後、キリスト教が確立してからは約200年後にプロティノスが「新プラトン主義」を唱えます。プラトンの不都合な説明を「神」と統一することで解釈したのです。これにキリスト教を用いたのがアウグストゥヌス(354-430)です。彼は「信仰に哲学」を持ち込んだのです。
かくて難解なギリシャ哲学は「学問と言う義父」と「キリスト教と言う義母」に保護され斜陽を向かえたのでした。
早期は2600年前のギリシャ哲学もプラトンとアリストテレスの20年の真実です