
思春期のアウグストゥヌス公は仲間とよく梨を盗んだそうです。
空腹を満たす為にでは無く、悪いことがしたかったからだそうです。
仲間内では、悪いことをするほど賞賛され、その「悪意に満ちた賞賛」を求めてもっと酷い悪事を働いたそうです。賞賛を求める為には「やってない」ことまで「やった」と主張したそうです。
仲間内では
「無垢な奴ほど意気地の無い奴。純潔な奴ほどつまらない奴。」
と評価されたそうです。
著書「告白」が書かれてから1600年が過ぎても若者は同じ心境らしい。
アウグストゥヌスは「傲慢故に神を模倣し、あらゆる者を見下した。自分と言う偽神様には、仲間と言う信者が必要だった」と述べてます。
しかし、本当に傲慢の罪だけが梨盗みの原動力でしょうか?
確かに群れていることそのものが心地良かったのでしょう。
しかし、私は敢えて「罰を求めた故の罪ある行い」
と主張したい。
誰しも善なる行いをして祝福されなければ不平等を感じるでしょう。
また、不本意な罪を咎められなかったら、「ラッキー」と思うでしょう。
では故意的な悪行を咎められなかったら?
やはり不平等に思うものなのです。
社会、大人、神に対して「鉄槌を降さない不条理」に憤りを憶えるのです。
罰を受けることで神の存在に触れていたいと思うのではないでしょうか?
社会は「罪の重さ」のみを追求し、「罰の意味」を求めない傾向にあります。
しかし、前回の記述通りなら、「自分と同じ罪を犯した者から報復を受ける」です。
不敬の罪なら不敬の者から、傲慢の罪なら傲慢の者によって裁かれるのです。
それが一層、自らの過ちを鈍化させてしまうのです。
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みんなから「いいぞ!やれやれ!」と言われて英雄気取りで梨盗みをした若きアウグストゥヌス公。
この記事を書いてから思い出したのは「ツイッターの迷惑画像投稿」です。
仲間内から囃し立てられて梨を盗む行為。
技術が進化しても人の心は成長してないのかもしれません。
イエス自身は「懺悔」に何も触れてません。偉大なるアウグストゥヌス公自身が若き日の罪を「告白」したからこそ、「懺悔ブーム」が起きたのです。
「神を知らずに生まれてきた。
しかし、愛し方を教わった憶えはない。」
by アウグストゥヌス
私の大好きな言葉です。