形而上学-絶対と縁について | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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アリストテレス(写真)は著書「形而上学(けいじじょうがく)」を記しました。
その著書は物事の「ある」、突き詰めて考えた書物だそうです。

作品は三部作に分かれ、「普遍学論(ふへんがくろん)」、「存在学論」、「神学論」についてそれぞれ書かれています。

存在論は存在とは何か?
神学とは神とは何か?
をそれぞれ考える学問と言うことは何となく理解できます。
では普遍学とは?
世の中の「探求」を基礎として「絶対」を求める学問だそうです。

そして普遍学は
因果律
実体

元素
の四分野に分かれてるそうです。

なんかこの四つの言葉の関係を見てると、「出来事の始まりとその規則性」
と感じました。

アリストテレスの原書を読んだ訳では無いので偉そうに言えませんが、
因果律とはきっと
「行為」に対しての「結果」。
「種」とは生物の遺伝とかの規則性を言いたかったのかな?「元素」も分解し終わった根源を学ぶことかな?

考察するにアリストテレスは恐らく人智を超えた世の中の規則性を見出したかったと思います。

私はこれを東洋の「縁(えん)」の概念に当てはまると思います。

現在、医学、科学は進歩して、例えば
「落雷」はゼウスの怒りで無いことは誰しも知ってます(笑)。
しかし、水蒸気と低気圧の問題を知ってても、「何処の誰が雷に撃たれたる」かはわかりません。

また現代科学でも「出逢い」は解明できませんし、時間や生命をコントロールできません。

キリスト教に於いてこの規則性を「神の思し召し」、
東洋に於いて「縁」で片付けてたのでは?
神様が姿も形も描くことが出来ず、人間は不完全だけど、神のみが完全ならば…。
「神とは人間が『絶対』に理解しきれない、規則性や法則を司る者」
ならわざわざ擬人化することも、呼びかける必要もないかも。
ただ自分自身の精神を落ち着かす為に「居た方が良い」と定義されたのかも。

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画像は「袖すり合うも多少の縁」
から振袖の画像です。
「縁を認識することは神を擬人化せずに神を感じる高潔な行為」bySPA-k
明日はその神(主)への問いかけを語りたいです