プラトン主義から新プラトン主義そして神学へ | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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イエスが亡くなった西暦30年から、ローマカトリック教会により教義内容が統一されたのは、何と西暦392年の先の話でした。

迫害を受けながらも、キリスト教は地中海沿いの世界五ヶ所に教会を設立するまでになりました。

しかし、広がりを見せるにつれ、教義内容はバラバラになり、統一が求められました。(前述のマニ教もその一部)

そこで新プラトン主義という哲学を取り込み、キリスト教の融合を計られました。(理由は前述の通り聖書に哲学的内容が乏しいから)

その取り込まれた「新プラトン主義」ですが、何故「新」かと言うと、

プラトン自身は「イデア論」と言うのを唱えて
「この世界は仮の姿で、真実、真理に近づくにつれ、普遍のイデア世界に近づくことが出来る。それは洞窟内で光が背中に当たる様な感覚。」
これがプラトンの哲学です。

しかし、プロティノスの新プラトン主義となると
「神から魂は生まれ、その下層に肉体を含む「物質全て」が作られた。その製造過程がイデアだ」
と言う具合に神様を持ってこられるんですね。

私は思うにプラトンのイデアってのは神様とは関係なく、学問上や人生の上での「気づき」だったと思う。

例えば、太陽は西から昇らないとか、万有引力には逆らえないとか、死は何人も回避出来ないとか。
知恵を求めて普遍のイデアに近づくのが、新プラトン主義では
「魂に徳を重ね、肉体に欠けている物を求めれば神に近づくことが出来る」
になったのだから驚きです(笑)。

そして神学として遂に統一されたアウグストゥヌスの教義内容は新プラトン主義を踏襲しつつも
「信仰、希望、愛」の「三元徳」により神の世界に近づくことが出来る。教会はその導き手となる。
と言ったものでした。
プラトンの「普遍的真実」を探求することは「学問の努力」ですが、「普遍は神のみ」とすることにより、探求は信仰となり、哲学は神学となったと思います。
とかく哲学者は傲慢の罪を背負いがちですので己の上なる者=神を常に感じることは謙虚さを学ぶに神学は有効と思いました。

明日は更に「戒律」を掘り下げてみたいです。