エゴとは利己主義でなく葛藤です | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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エゴと言えば自己中心的で欲望まみれの人間って思ってませんか?

精神医学者フロイト(1856―1939)によれば、エゴ=自我は、本能(エスと呼びます)と理性(超自我=スーパーエゴと呼びます)に挟まれた調整役を言うのです。
有名な例題は
「ケーキを食べれば太る」
です。
「食べたいけど太りたくない」
との思い、そしてその葛藤(かっとう)そのものが自我(エゴ)なのです。
もしも人間に自我も超自我もなく、本能(エス、発音によりイド)しかなければ…
悩みもせずにケーキを食べるでしょう。
そうです。真の本能とは意識されないのです。
食欲、性欲、危機回避。沸き上がる事そのものは常に意識されず理性との葛藤により初めて自覚できるのです。

よく漫画やアニメで、自分自身の姿をした小さな天使と悪魔が囁きあってるシーンを見ますよね?

そこでどちらが「悪」かを考えて下さい。
1 天使と悪魔の戦いの末に悪魔を選んだ人間。
2 悩みもせずに悪魔と最初から同じ選択をする人間

1 は本意で選択しています。そして2を正すには、それ以上の外部からの正義が必要となります。

また超自我による理性や道徳心は「悪いこと」を「知っている」からこそ抑制が効くのです。

逆に言えば葛藤も無く天使に同調する人間にはどれほどの本意があるのだろうか?
悪行を知らない善行にどれほどの価値があるだろうか?

思うに相互理解のない場合は、
純然たる善と純然たる悪は干渉(かんしょう)し合うことなく、住み分けが出来るのではないだろうか?

人間の完成形は赤ん坊でも野性動物でもない。
それだけは確かです。しかし、
「成功者ほど自らの野性や無垢(むく)に忠実である」
と私は考えます。

最後にエスの沸き上がり方の「個体差」を左右するのは
かの有名な「トラウマ」なのです。