「人間は考える葦である」 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

物理学者で哲学者、そして敬虔(けいけん)なクリスチャンであるパスカルの言葉です。

中学の理科にも出てくきて、「フラスコ内の圧力は何処も常に均等である」で有名なパスカルです。
私は「考える葦(あし)」は思いを巡らせる脳内の「神経シナプスの象徴」と漠然と考えてました。
それはデカルトの「我思う故に我あり。」を追従した言葉と考えてました。
しかし、真実は逆でした。
パスカルはデカルトの否定からこの言葉を残しました。

デカルトは「神の証明」を試みました。それは「あらゆる偏見、霊感に頼らず、論理、根拠に基づく存在」としての証明でした。

パスカルは信仰故にこれを否定します。
「不完全な人間の理性では完全な神を到底理解できない」
と言及しました。

神を「数学で測定する」のでなく、信仰だけが唯一の神を感じる方法だと言いました。
そして「葦」は「茎の中で最も弱いが、
考える葦は
空間によって宇宙を包み、
思考は自らを宇宙の一つの点とする」

論理的思考による神の定義が神の冒涜(ぼうとく)か?
それは自らの「死生観」による。
また「死を与える者」は神だけでない。
天使、先祖、妖精、そして死神に悪魔。
神が万物を創世したのなら悪魔さえも神の子供でしょうか?