ハイデッカーの難問 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

私が思い悩み、立ち止まるといつもこの言葉が頭の中で繰り返す。
ハイデッカーの

「存在は存在者と異なり、存在は存在しないことになります。」

誰かこの意味をわかりやすく私に解説して下さい(笑)

まるで映画レインマンでパニック発作が起きたダスティンホフマン演じるレイモンドが、
「一塁手はWHOだ」を繰り返す様に。

とにかくハイデッカーは自分達人間を「存在者」として定めると、その存在者が「存在する」と言うことを研究し続けました。
ハイデッカーは人間だけが存在を認識できる。即ち、
自分自身や他人、道具が「そこに在る」と理解できると言及しました。
また眼前に広がる者の存在意義は「利用出来るか?」の関係性でしか存在を認識出来ないとまで言いました。

乱暴な言い方をすれば
「目に映る物は利用できる物。
目に映らない物は存在しない。」
と利己的で排他的(はいたてき)な考えが生まれます。
これがハイデッカーがナチスに加担したと言われる所以(ゆえん)です。
しかし、ハイデッカー自身は自らの存在論の抑止は「死の受け入れ」でした。
「死生観」を崇高に持てば存在の認識がより高次になると認めていたのでしょう。
しかし、この主張によりハイデッカーはナチスからも排除され、ナチスに加担したとの汚名で正に彼の存在は認識されなくなりましたとさ。