昨日の続き。
とにかく「神は死んだ」
ニーチェのこの言葉が氾濫し、一人歩きしてます。
しかし、この言葉の意味の二つ目は、
「形而上学(けいじじょうがく)に於いて神は死んだ。」
と言う意味です。
形而上学…字のごとく「しかるべき形を定義する学問」と言うことです。
ザックリ解釈したら、「神とは○○だ。」 「人間とは…」 「存在とは~」とかを問答して相手が反論出来んくらいの立派な名言残す(遺す?)学問です。
哲学と言えば真っ先にこの形而上学を連想する人も多いでしょう。
ニーチェはこの形而上学での神を、キリスト教道徳と同じく徹底的に排除しようとしました。
科学の発達で古典的、伝統的文化が崩壊しました。祈りより勉強。農業より工場の大量生産の時代です。
正に、「古きしきたりに胡座(あぐら)をかいて座る神」は近代化の波によって殺されてしまいました。
しかし、ニーチェはその原因を科学技術ではなく、神学的権力者の無知に求めました。
「教義の大半を『神』に頼っているのに、その神を『定義』することが出来ないではないか!
教える側が確実に『神を説明出来ない限り』神は死でいるに等しい」
と言う理由でニーチェは
「神は死んだ」
と言う言葉を残したのです。
そして形而上学(けいじじょうがく)は今日に到るまで引導を渡されました。
ただ、ニーチェは神の存在を否定していません。
否定したのは「神が人間を創造した」ことでした。
ニーチェは「人間が人間として、それ以上を求めたから人間は進化した。
つまり、
1 より高みを求める気持ち
2 それによって入手した力
以上二点だけは人間自身が創造者だと。
そして世界は唯物(ゆいぶつ)論、物質社会の隆盛により世界大戦を迎えることになりました。
それは明日に。
追記 私自身は形而上学(けいじじょうがく)の神さえも死んでいないと確信しています。