“U35家庭科共修世代”の夫は「家事も当たり前!」専業主婦の夫でも、約8割が掃除シェア
実教育が実を結んだ好例ですね。
単なる時流だけでなく教育の結果というところの因果関係は、おそらくもう少し踏み込んだ研究をされている方がいるはずです。
1993年に始まった教育の効果がようやく目に見えてきたのが20年後。
いかに教育の投資効果が測りにくいものであるか、ということも分かります。
教育にかんする施策はそれだけ、長期的な観点で見なければ、分からないものです。
個人的には、最近の文系学部の縮小の傾向など、長期的にみると自国の文化の衰退を招くだけにしか思えず、教育学者からの反対の声をもっとほしいなぁ、と思います。
また、仮に家事分担率の増加が、教育の効果によるものであるとすれば、
家庭科などの教育をまじめに聞いてこなかった層(≒低学歴層)と高学歴層の比較も気になるところです。
うちも、家事はシェアしています。
でも、家事を楽にする工夫も多く取り入れています。
単純に、食洗機・ルンバ・洗濯乾燥機を導入すれば、洗い物・掃除・洗濯の大部分が省力化されるので、そうした負担の少なさも働きながらお互いが家事できるようになった一因なのでは、とも考えられます。(うちは乾燥機はないので、お日様頼みですが)
「効率」って言葉、使いすぎるとまた窮屈な感じがしてしまいますが、
適度な効率化は、時間的な余裕ももたらすし、家事の分担をするにしても、お互いの負担が楽になります。
分担の際に、相手に「面倒くさい」と思わせないのは重要なことだと思います。
だから、いつも夕飯を作る妻が「今日の夕飯お願い!」って旦那に頼んで、旦那が出前のピザや寿司を頼んだとしても、それはそれでいいんじゃない、と思います。
そうしたお互いの負担を減らし、「ゆとり」を作ったうえで「何をするか」というところで、「生活の豊かさ」や「幸福感」みたいなのが変わってくるような気がします。
みんな、「ゆとり」ってどうしてるんだろう?
仕事一本でやってきた団塊世代が引退したとき、引退したのちに「何をすればいいかわからない」という人が多かった、という話はよくあります。
そのあたり「ゆとり」世代といわれ続けている世代が、子育て期に入ったときに、どのように生活の中での「ゆとり」を工夫しているか、「ゆとり」をもつことの大切さを学んだはずの人たちの実践力が気になるところです。
16歳少女ツイッターで売春募集で逮捕。「少女たちは軽い気持ちで売春に足を踏み入れている」のか?
ひどい話。
買う側が悪いに決まっている。
買う側は、自分が助けているのだと思っているんだろうか?
大丈夫?と声をかけて、ケータイも部屋も食べ物も洋服も用意してくれる。
その代わりに、体をもらう。何様だ。
ケア付きの補導とまで、は実現は難しくても、警察と民間のNPOシェルターとの連携をより強固にできないか。
あるいは、補導されるほうが怖い、という子も中にはいると思う。
地域の力に頼るには、東京の繁華街は人が多すぎるのかもしれないけれど、ボランティアによる一般の人の声掛け等がより効果的なのかもしれない。
地域・教育・福祉・警察、そうしたものの網目からこぼれ落ちた子たちが逮捕される矛盾がある。
網目を細かく、というのは行政だけでは、どうしても難しい側面がある。行政のサービスは基本的には、平等にみんなに行き渡るものだから。
弱者に対し十分なケアを与え、公平性を保つために底上げするのには、民間や地域の力が必要になる。
本当なら、その地域の人同士でもっとお互いのことを知り、お互いに助け合うことができれば一番望ましいけれど、それが叶わないなら、どうか目の端にとまったときだけでも支援をしてほしい。
自分が助けられなくても、携帯電話一つで助けを呼ぶこともできる。
おせっかいでも、しすぎて損することはない。
おせっかいだけど、微力ながら支援します。
ご支援のお願い
ひどい話。
買う側が悪いに決まっている。
買う側は、自分が助けているのだと思っているんだろうか?
大丈夫?と声をかけて、ケータイも部屋も食べ物も洋服も用意してくれる。
その代わりに、体をもらう。何様だ。
ケア付きの補導とまで、は実現は難しくても、警察と民間のNPOシェルターとの連携をより強固にできないか。
あるいは、補導されるほうが怖い、という子も中にはいると思う。
地域の力に頼るには、東京の繁華街は人が多すぎるのかもしれないけれど、ボランティアによる一般の人の声掛け等がより効果的なのかもしれない。
地域・教育・福祉・警察、そうしたものの網目からこぼれ落ちた子たちが逮捕される矛盾がある。
網目を細かく、というのは行政だけでは、どうしても難しい側面がある。行政のサービスは基本的には、平等にみんなに行き渡るものだから。
弱者に対し十分なケアを与え、公平性を保つために底上げするのには、民間や地域の力が必要になる。
本当なら、その地域の人同士でもっとお互いのことを知り、お互いに助け合うことができれば一番望ましいけれど、それが叶わないなら、どうか目の端にとまったときだけでも支援をしてほしい。
自分が助けられなくても、携帯電話一つで助けを呼ぶこともできる。
おせっかいでも、しすぎて損することはない。
おせっかいだけど、微力ながら支援します。
ご支援のお願い
これ、すごく面白いです。
なんか、いろいろとビジネスが拡げられそうな気がします。
「保存食」なんだから、いろいろな企業に備蓄品として置いてもらうとかも有りですし、そもそもレンジで温めれば食べられるのであれば、日常の宅配ランチとしてもいいかもしれません。
現状、都内でもなかなかオフィス向けの宅食サービスは難しいようで、まだまだ数が少ないです。
社食っていいな・・・でもデリバリーならできるかも!オフィスの社食・ランチデリバリーまとめ
一方で、充実した社食を用意した大企業やIT企業は多くあり、そこまでお金をかけられないけど、社食がほしい!というニーズは多分、多いんじゃないかと思います。
「保存食」といっても、日常的に食べられて、しかもおいしいものであれば、十分に受け入れられる気がします。
単価とか製造過程とかいろいろ気になるところですが、詳しく調べてみたいなぁ、と思いました。
私も専門でも何でもないし、詳しいわけでもないですが、なぜ多くの憲法学者は違憲といっていて、それにもかかわらず安保法制を進めなければならないという政策合意がされているのか、というところは普通に疑問に思うところなので、いろいろと調べてみました。
国連憲章、憲法9条、そして国会答弁(政府見解)が、集団的自衛権をめぐる議論の拠り所となっているようなので、それらを中心に調べてみます。
・集団的自衛権とは?
このあたりの論点整理にあたっては、防衛省管轄の防衛研究所内の論文から引用します。
安倍内閣による解釈改憲までのおおよその議論の流れは、下記の論文を読むとある程度わかります。
憲法第 9 条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る― 鈴木尊紘
まず、国連憲章では、その第51条で個別的自衛権・集団的自衛権の行使を認めています。
”この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない”
そのうえで、上記の論文では、次のように集団的自衛権を定めています。
”集団的自衛権の解釈は、次の三つに大別される。
①集団的自衛権は、一国に対する武力攻撃が行われることによって、他の諸国も各自の個別的自衛 権を共同して行使する、又は地域的安全保障に 基づいて共通の危険に対処するための共同行動 をとるか、いずれかの場合とする定義である(個別的自衛権共同行使説)。
②集団的自衛権は、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方である(個別的自衛権合理的拡大説)。
③集団的自衛権とは、他国の武力攻撃に対して、自国の実体的権利が侵されていなくとも平和及び安全に関する一般的利益や被攻撃国の国際法上の権利(領土保全・ 独立等)を守るために被攻撃国の自衛行動を支 援する権利であるとする考え方である(他国防衛説)。
このうち、我が国の政府は、個別的自衛権合理的拡大説(②)を採っている。”
としています。
つまり、日本で議論される集団的自衛権とは②の個別的自衛権を拡大したものだと解釈されます。
また、個別的自衛権については、
「国家に対する急迫不正の侵害があった場合に、その国家が実力をもってこれを防衛する権利」としており、
このような自衛権の発動のためには、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどま るべきことという「自衛権発動の 3 要件」に該当することが必要であると説明している。
上記の自衛権発動の3要件が、のちに安倍内閣で議論される新3要件にとって代わられます。
・新3要件とは?
これについては、内閣官房の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答から引用します。
・我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。
・これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
特に、新3要件の一つ目は集団的自衛権の定義としての。
「自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方」
に非常に近い文言となっています。
つまり、新3要件は多分に集団的自衛権を認めるものとなっているのですが、政府としては、集団的自衛権のすべてを認めるわけではない、としています。
2014年7月の閣議決定では、上記の新3要件と内容はかぶりますが、
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国 に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民 の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある 場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るため に他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使すること は、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、 憲法上許容されると考えるべきと判断するに至った」
(東アジア戦略概観2015 第一章より)
としています。
上記の閣議決定がいわゆる解釈改憲とされるものであって、これによって安保法制の整備への議論が本格化します。
そして、ここで3要件の重要な発動要件である、存立が脅かされる事態=存立危機事態が大きな議論を呼ぶことになります。
この、存立危機事態については、政府は答弁の中で、「攻撃国の意思、能力、事態の発生場所などを総合的に考慮して、日本に戦禍が及ぶ蓋然(がいぜん)性から判断する」としており、非常にあいまいな表現です。
その曖昧さから、国会では野党から厳しく追及され、そのうえ参考人として招いた憲法学者からは違憲だと言われる始末である、というのが現状です。
ちなみに、砂川事件についても、調べてみましたが、正直集団的自衛権の議論と関係する内容なのか、疑問です。
・砂川事件について
”砂川事件とは、1955 年から 1957 年にかけて行われた、東京都北多摩郡砂川町(現、立川市)のアメリカ軍の基地 拡張に対する反対運動を巡る事件である。
1957 年 7 月 8 日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、デモ隊がアメリカ軍基地に入ったことが違法とされた。東京地方裁判所(第一審)は、日本国政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、日本国憲法第 9 条第 2 項前段で禁止される戦力の保持にあたり、違憲である、したがって、被告人を罰することはできないという判決を出した(いわゆる「伊達判決」)。これに対し、検察側は最高裁に跳躍上告した。最高裁は、1959年12月16日、憲法第9条は日本国が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは、日本が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらないこと、また、日米安保条 約のように高度の政治性を持つ条約については、一見極めて明白に違憲と認められない限り、その内容についての違憲性の法的判断をくだすことはできないこと(統治行為論)を示し、原判決を破棄し、地裁に差し戻した(最高裁判 所刑集 13 巻 13 号 3225 頁)。”
ちなみに、ここで述べられる統治行為論を引用して、政府の決定を判決を上回るものとしようとする推進派の意見もありますが、本来は逆に使うべきで、最高裁という少人数の高官だけでは判断ができないものに対して、政府の外交やその他の重要な事態を考慮したうえで、法的判断を下すべき、というものであって、統治行為論を振りかざして強引に進める、といったものではありません。
内容的に見ても、砂川事件の判決は、当時の日米関係を鑑みたうえでの判決であって、集団的自衛権の議論を念頭においたものではないので、これを持ち出したのは、統治行為論を強引に用いたかったから、としか考えられないです。
さて、報道ステーションでは違憲であるという憲法学者のコメントを集めています。
もちろん、立法側である政府においても、憲法の専門家・弁護士資格をもった議員・官僚が多数いることと思います。
解釈改憲以降、法案の形が整うまでにかなりの時間があったにもかかわらず、十分な答弁書や想定問答集を作られていないのは、やはり解釈改憲自体に無理があったのでは?と思うところがあります。
集団的自衛権の問題は、憲法学者からしてみれば、別にいま始まったことでもなく、長い間議論されてきて、しかも「国際法上は権利を有するが、憲法上行使は許されない」ものというある意味矛盾をはらんだ宙ぶらりんのものとして、議論されてきました。
上記の憲法学者のコメントのなかには、そもそも自衛隊自体が違憲だし・・・というのもありますし、責任ある立場の人が責任をもってコメントをするのとは全く異なってきます。
そのうえで、今国会中に強引に法案成立をさせてしまうことは、さすがに手順を間違えているように思います。解釈改憲で無理があるなら、一度訴訟を起こして最高裁の判決を待ってもいいと思います。
いろいろ調べてみて、無理せず、一度延期させたうえで、再度有識者会議などで、練り直したほうが、何かと都合がいいと思いました。(そしたら、アメリカに口約束してきた安倍さんは引責辞任になるでしょうし・・・←ここが一番重要)
国連憲章、憲法9条、そして国会答弁(政府見解)が、集団的自衛権をめぐる議論の拠り所となっているようなので、それらを中心に調べてみます。
・集団的自衛権とは?
このあたりの論点整理にあたっては、防衛省管轄の防衛研究所内の論文から引用します。
安倍内閣による解釈改憲までのおおよその議論の流れは、下記の論文を読むとある程度わかります。
憲法第 9 条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る― 鈴木尊紘
まず、国連憲章では、その第51条で個別的自衛権・集団的自衛権の行使を認めています。
”この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない”
そのうえで、上記の論文では、次のように集団的自衛権を定めています。
”集団的自衛権の解釈は、次の三つに大別される。
①集団的自衛権は、一国に対する武力攻撃が行われることによって、他の諸国も各自の個別的自衛 権を共同して行使する、又は地域的安全保障に 基づいて共通の危険に対処するための共同行動 をとるか、いずれかの場合とする定義である(個別的自衛権共同行使説)。
②集団的自衛権は、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方である(個別的自衛権合理的拡大説)。
③集団的自衛権とは、他国の武力攻撃に対して、自国の実体的権利が侵されていなくとも平和及び安全に関する一般的利益や被攻撃国の国際法上の権利(領土保全・ 独立等)を守るために被攻撃国の自衛行動を支 援する権利であるとする考え方である(他国防衛説)。
このうち、我が国の政府は、個別的自衛権合理的拡大説(②)を採っている。”
としています。
つまり、日本で議論される集団的自衛権とは②の個別的自衛権を拡大したものだと解釈されます。
また、個別的自衛権については、
「国家に対する急迫不正の侵害があった場合に、その国家が実力をもってこれを防衛する権利」としており、
このような自衛権の発動のためには、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどま るべきことという「自衛権発動の 3 要件」に該当することが必要であると説明している。
上記の自衛権発動の3要件が、のちに安倍内閣で議論される新3要件にとって代わられます。
・新3要件とは?
これについては、内閣官房の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答から引用します。
・我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。
・これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
特に、新3要件の一つ目は集団的自衛権の定義としての。
「自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方」
に非常に近い文言となっています。
つまり、新3要件は多分に集団的自衛権を認めるものとなっているのですが、政府としては、集団的自衛権のすべてを認めるわけではない、としています。
2014年7月の閣議決定では、上記の新3要件と内容はかぶりますが、
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国 に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民 の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある 場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るため に他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使すること は、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、 憲法上許容されると考えるべきと判断するに至った」
(東アジア戦略概観2015 第一章より)
としています。
上記の閣議決定がいわゆる解釈改憲とされるものであって、これによって安保法制の整備への議論が本格化します。
そして、ここで3要件の重要な発動要件である、存立が脅かされる事態=存立危機事態が大きな議論を呼ぶことになります。
この、存立危機事態については、政府は答弁の中で、「攻撃国の意思、能力、事態の発生場所などを総合的に考慮して、日本に戦禍が及ぶ蓋然(がいぜん)性から判断する」としており、非常にあいまいな表現です。
その曖昧さから、国会では野党から厳しく追及され、そのうえ参考人として招いた憲法学者からは違憲だと言われる始末である、というのが現状です。
ちなみに、砂川事件についても、調べてみましたが、正直集団的自衛権の議論と関係する内容なのか、疑問です。
・砂川事件について
”砂川事件とは、1955 年から 1957 年にかけて行われた、東京都北多摩郡砂川町(現、立川市)のアメリカ軍の基地 拡張に対する反対運動を巡る事件である。
1957 年 7 月 8 日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、デモ隊がアメリカ軍基地に入ったことが違法とされた。東京地方裁判所(第一審)は、日本国政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、日本国憲法第 9 条第 2 項前段で禁止される戦力の保持にあたり、違憲である、したがって、被告人を罰することはできないという判決を出した(いわゆる「伊達判決」)。これに対し、検察側は最高裁に跳躍上告した。最高裁は、1959年12月16日、憲法第9条は日本国が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは、日本が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらないこと、また、日米安保条 約のように高度の政治性を持つ条約については、一見極めて明白に違憲と認められない限り、その内容についての違憲性の法的判断をくだすことはできないこと(統治行為論)を示し、原判決を破棄し、地裁に差し戻した(最高裁判 所刑集 13 巻 13 号 3225 頁)。”
ちなみに、ここで述べられる統治行為論を引用して、政府の決定を判決を上回るものとしようとする推進派の意見もありますが、本来は逆に使うべきで、最高裁という少人数の高官だけでは判断ができないものに対して、政府の外交やその他の重要な事態を考慮したうえで、法的判断を下すべき、というものであって、統治行為論を振りかざして強引に進める、といったものではありません。
内容的に見ても、砂川事件の判決は、当時の日米関係を鑑みたうえでの判決であって、集団的自衛権の議論を念頭においたものではないので、これを持ち出したのは、統治行為論を強引に用いたかったから、としか考えられないです。
さて、報道ステーションでは違憲であるという憲法学者のコメントを集めています。
もちろん、立法側である政府においても、憲法の専門家・弁護士資格をもった議員・官僚が多数いることと思います。
解釈改憲以降、法案の形が整うまでにかなりの時間があったにもかかわらず、十分な答弁書や想定問答集を作られていないのは、やはり解釈改憲自体に無理があったのでは?と思うところがあります。
集団的自衛権の問題は、憲法学者からしてみれば、別にいま始まったことでもなく、長い間議論されてきて、しかも「国際法上は権利を有するが、憲法上行使は許されない」ものというある意味矛盾をはらんだ宙ぶらりんのものとして、議論されてきました。
上記の憲法学者のコメントのなかには、そもそも自衛隊自体が違憲だし・・・というのもありますし、責任ある立場の人が責任をもってコメントをするのとは全く異なってきます。
そのうえで、今国会中に強引に法案成立をさせてしまうことは、さすがに手順を間違えているように思います。解釈改憲で無理があるなら、一度訴訟を起こして最高裁の判決を待ってもいいと思います。
いろいろ調べてみて、無理せず、一度延期させたうえで、再度有識者会議などで、練り直したほうが、何かと都合がいいと思いました。(そしたら、アメリカに口約束してきた安倍さんは引責辞任になるでしょうし・・・←ここが一番重要)
- 猪谷千香『つながる図書館』を読みました。
つながる図書館: コミュニティの核をめざす試み (ちくま新書)/筑摩書房
- ¥842
- Amazon.co.jp
公共の図書館、自分の住んでいる町以外の図書館だとなかなか行く機会がないのでは?と思います。
全国に、図書館はたくさんあります。本が好きな人にとっては、よく足を運ぶある意味一番身近な公共施設です。
図書館が単なる無料の貸し本屋である、という批判が、ベストセラー作家の本が大量に図書館で在庫を持ち、予約待ちでいっぱいである、という情報とともに批判されたことがありました。
もちろん、図書館の機能は、単なる無料の貸本屋だけにとどまりません。
また、近年図書館の役割も見直され始めています。
様々な人が通い行きかうコミュニティを形成する場としての機能、レファレンス能力を生かしたビジネスを支援する機能、など、新しい取組を行う図書館が増えています。
本書は、その事例をいくつか紹介し、新たな図書館のあり方を考える緒としてのハンドブックとして面白く読むことができます。
TSUTAYAを展開するCCCが指定事業者として運営することで話題になった、武雄市図書館についても言及しています。
個人的には、街づくりとして、多くの来場者と観光客を獲得し、日常利用者も大幅に増えた良い事例だとは感じていますが、そういった瞬間的な話題性や新規性だけでなく、継続して文化的な価値あるものを持続していけるかどうか、といったところをCCCだけに丸投げするのは、公共事業としてはとてもリスクの高いものなので、官民連携が重要になるとともに、今後は市長の推進力だけでなく、住民の声を反映しながら住民主体で作っていく必要があるのだろうと思います。
そのほか、事例として、武蔵野プレイスや小布施まちとしょテラソや海士町中央図書館なども紹介されています。
こちらのほうが、より住民主体で作られた新しいコミュニティ空間として機能した図書館の事例としてそれぞれの取り組みも面白いものとなっています。
図書館というハコモノ自体、ともすれば、公共政策のなかで後回しにされがちなものになってしまいますが、図書館を中心としたさまざまな市民活動のオープンな場として、カフェが併設されていても良いし、商店街(マルシェ)が併設されていても面白いと思います。
図書館は「さまざまな世代の人が集まる場所」であって、そのなかには「さまざまな専門知識を持った人」や「図書を案内できる専門家・司書」がいます。
うまく、その間を「つなげる」ことができるようなオープンな雰囲気があれば、図書館として本をアーカイブし、一般に貸し出す、というだけにとどまらず、異業種交流イベントや、ビジネス支援、文化活動の支援など、より積極的な活動ができるかと思います。
一方で、「図書館で働く人」が図書館の「無料」という特性上、低賃金となっている問題もあります。
そうした面をカバーするべく、CCCのように営利部分を広げる、というのも一つの手かもしれませんが、商業利用と公共性の線引きをあいまいなものにしてしまうことは、個人情報の外部利用の問題をはじめ、低コスト化による非採算部門の縮小化などのリスクもあるため、やはり一定のマネジメントが求められます。
そのあたりのバランスが、こうしたコミュニティ空間を設計するうえで、一番難しいところなんだろうな、と思います。
そんななかで、今一番新しい取り組みをしているのが、 オガールプラザかと思います。
東日本大震災の被災地でもある、岩手県の紫波町に新しく作られた複合施設で、”10の民間テナント(飲食・物販・医療・教育系)と、紫波町が運営する情報交流館(図書館・地域交流センター)で構成される『官民複合施設』”としています。

図書館は、まだまだ可能性に満ちた面白い施設だと思います。
いまも全国に多くある図書館の多くは、こうした可能性に気付かず埋もれたままになっている閑散とした場所になっているように思います。
利用者として、単に本のリクエストをするだけでなく、新たなコミュニティの可能性をリクエストしてもいいんじゃないかと思います。




