瞑想の会にはいって、かなりの年月です。
とはいえ、参加する、しないにあまり干渉しない処なので、
それを良い事に、
そんな真面目に通ってもいないのですが、
やはりたまに顔を出して、瞑想関連のプログラムに参加すると
それなりの洞察が得られます。

昨日は、会の運営ボランティアメンバー達のミーティングでした。
久々に出席して、運営の事で他のメンバーの発言を聴いていたのですが、
その間ずーと、「自分はなんで組織の中で瞑想を続けているのだろう」と
今更ながら疑問を持ちました。
利害関係が生じないところだし、
瞑想そのものはどこでも一人でもできるものですし、
さまざまなメソッドも知っています。
辞めるか、もっと距離を取る事も可能です。

運営のための、様々な現実的な問題、例えば人が足りない、
運営費がぎりぎり、等話し合われている議題も、
ある意味他人事として抜けることもできる。

実際、ボランティアの口がかかる度に、
心の奥底でちょっと「めんどくさいなあ」の声が聞こえる。
この時代、他の瞑想の会、スピ関係のセミナーも
山ほどあるから、そちらに移る事もできる。

で、もう一度
なんで組織(というのが大げさなら、グループ、とでも)
に関わっているのだろう、
と自問していましたが、
ある参加者の言動に、個人的な感情も重なって
いらついていた時に、
先日の八ヶ岳セミナーで
蘆原先生がおっしゃっていた
「ゴミは見えないと、掃除できない」の
言葉が蘇ってきました。
ゴミ、というのが極端な例ならば、
鏡、とでもいうのか、
トリガー(引き金)になる人物、出来事を通じて、
浮上して来る感情を眺めて、
自分がどこにひっかかっているのか、
初めて見えて来るものがある。

これが、自分だけの世界で瞑想していても
なかなか見え辛いものですね。

ヨガの世界には
「小聖は山で修行し、大聖は街で修行する」との言葉があります。

人里離れた深山なら、瞑想も集中しやすく
人とのあつれきも少ないでしょうが、
街の喧噪の中では
人付き合いそのものが既に修行です。

仕事でもプライベートでも
人付き合い、確かに避けたいこともある。
全方位的に周り全ての人と仲良く、なんて
それは無理が生じます。

でも、人を通してしか、
自分、て見えてこないのは現実なんですね。

時に右往左往し、時に上から目線でもの申し、
時に優しい気持ちで接し、
時に怒りで接し、と
自分の感情、アクション、飲み込んだ事、etc.


そういう場として、グループでの瞑想の場は
ある意味、自分の中のエゴを炙りだすためにも
一役買っている訳らしい。
と、自分なりの結論が出ての
昨日の会でした。

先週は、八ヶ岳の萌木の村にて、
「黎明」の著者、蘆藁瑞穂さんを講師に
合宿セミナーがありました。
普段、「黎明」の読者、今まで講演会、勉強会に参加した方々が
それこそ全国から集い、
平澤真希さんによる素晴らしいピアノ演奏、
そして蘆藁先生の講演、美味しいワイン、ウィスキー、
食事と、
どちらかというと「リゾート合宿」。

「波動を高める」がテーマでもあり、
音への情熱、
美味しいワイン、ウィスキーを作り出す情熱、
修練の縦糸と意識の横糸から織りなす
音楽、お酒、食事のエネルギーの高さは
まさにアートの極致でした。
こういうエネルギーを身体に取り込むと、
本当にマインドも身体も元気になります。

人の手を通して、
創られたものへの
リスペクトが、一段と深まった時間でした。

蘆藁先生のお話も、
コーヒー、コンサート、ワイン、ウィスキー、オーディオと
思い入れのあるものに
お金をここまで掛けていいいのか!?
というエピソード満載で、
どちらかと言うと、吝嗇傾向(^_^;)のある私には
頭をシャッフルされる事ばかり。
いい、刺激でした。
霊的なものを求める事と、
物質的な物を求める事が
矛盾無く存在している事に
多いに勇気づけられました。

Q&Aでは、
聴いている方が、失礼ながら
ちょっとうんざりするような質問も出たのですが、
どんな質問にも、普遍意識から出た言葉で誠実に
答えていらしたのが、とても印象的でした。

普遍意識で人、そして自分に接するって
究極の愛なんだな。
普遍意識は、創造主、グル意識、宇宙意識とも
言われています。それぞれのしっくりする形で。

これができていれば、
外にグルを探す事無く、
パワスポにむやみに行く事無く、
この世を天国として生きる事ができるのだなあと
思います。
(オタクとしては、パワスポ巡り、楽しいですよー)

折しも、その数日後、
パリでの悲惨な事件が起きましたが、
その視点を意識して過ごす事が
できるようになりたいものです。

難しいって?
その「難しい」という思考パターンはあなたのものですか。
それとも誰かが、メディアが言っていた事ですか?
まずそれを手放しましょう。

世界を変えて行く事は
そこから かもしれません。











開運と言葉の力は
切っても切り離せません。
その勉強の一端ということで
以前から興味があった
ホツマツタエの講座に行ってきました、
行く前は内心、こんなコアなマニアックな講座、
ほんとに参加者がいるんだろうか?だったけど、
満席に近く、しかもシニアの男性も多くてびっくりでした。

講師は一糸恭良(いと・やすよし)氏。
ホツマ出版という、まさにホツマツタエを世に出すために
自分で出版社を興した人。
なぜなら、これが大手出版社から出されると、
いわゆるアカデミックな大御所の歴史学者から
相当の抗議を受けるであろうとの事でした。
「ホツマツタエ」は古事記、日本書紀の原書、
とされていますが、勿論食い違う箇所も多く、
それが公にされたら、
かなりの混乱が生じる可能性もあるそうです。
それでも近年、ホツマツタエ他に興味を持つ人が多くなり、
来年は大学で、学生に向けて講義する事に
なった、とのことでした。

中国から漢字が渡って来るまで、
日本には文字がなかった、などと
一般には教えられていますが、
日本には古来から
ホツマを記したヲシテ文字以外にも
文字が多数あり、
しかも漢字が入って来ると、
中国の言葉の意味付け
「漢意」になってしまったの事で、
このポイントが一番面白かった。

例えば「國」くに は、
中国では 「境界線を儲け、その地を矛で守る、つまり武器によって
固定された占有地」という意味、
これが ヲシテ文字の「くに」では
宇宙の総増進が生み出した源を、指導者が感じ取り
人々と調和したところとなります。

秦一族はじめ、渡来人や仏教がもたらした
外来の概念が、
もともとの「やまと」の言葉の象意を飲み込んで行って
広がっていったらしく、
これはこれである種の「呪 しゅ」によって
その後の日本の国家が成り立って行ったと言えます。
意図はなかったかもしれませんが、
壮大な一種のマインドコントロールが行われた
という事になるのでしょうか。

折しも昨日、
NHKでアジアの古代遺跡4「縄文」を取り上げていましたが、
近年の研究により、
狩猟採取民族=文明度が低い、という
これまでの常識を覆し、
高度な定住型集落を作り、
1万年もの間、持続可能な社会を作り上げて
きたことが判明しつつあります。

先の「國」を例にとると、
沢山の氏族が争い乱れる中、
確かに新入を防ぐために境界線を設ける事が
その土地で生き延びる知恵であり、
そこから「國」の概念が発生したのかもしれません。

一方、争う必要が過度になかった
古代の日本では、
くに、の概念も違ったものでした。

それが、漢字の到来とともに
「境界線を引いて守るもの」という概念が
生まれてきます。

象形文字である漢字を
強引にもともとの大和言葉に当て嵌めて行く過程で、
もともとの意味が失われて、中国的な概念に
変わって行った、となるようです。

このあたりのプロセスも少しお話があり
とても興味深かったのですが、
現実的には
日常の言葉を漢字以前に戻す訳にもいきません。

ただ、注意をしたいのは、

言葉は 呪(しゅ)でもありえます。
まじない、をかける、というのは
言葉で人を操る、という事と殆ど同義語です。

また、人は、自分が信じたい事を言ってくれる人に
盲目的な信頼、依存をもつ傾向にあります。

意図して、ある言葉を
他人、自分に向けて放つとき、
それは強力なエネルギーを放出します。

言葉の力、にもう少し敏感になることで
それをプラスに開運に繋げていく道があるのです。