先週末はエリック パールによる
リコネクション セミナー 
実に8年ぶりに、プラクティショナー資格更新のため、
参加しました。

今回の再受講、実は迷いました
周波数はもう出せるのに、
資格のために受け直すのも
どうかな、と。
でもやはり参加して良かったです。

今回、エリックはヒーリングという言葉を何度も使い、
その言葉を聞く時の居心地の悪さも含め、
ヒーリングとは何か、を追求させるプロセスでもありました。

治す、ではなく、調和の状態に持って行く、
というのが、ここで示されたものです。
そして、その調和とは、一見エントロピーとみなされるもの、
通常の見解では崩壊とみなされるものが、
実はより大きな視点からみると、
次の調和への大事なピースであったりします。
死や、施術を施しても一見よくならない、治らないことを
どう捉えるのか、

ひょっとしたら、今地球規模で起きているさまざまな変動、
暴力的な事柄も、次の調和のための移行運動かもしれません。

これは、かなり哲学的な見解を持たないと、
事象的な事柄に飲まれて
ついて行きづらいかもしれません。

BeingとDoingという言葉も出てきました。
すでにそれであることと、それになろうとすること、
どちらにいるのですか、と。

意味付けを捨てて、情報武装、スキル武装も解いて、
素のままで立てる自分でありたいですが、
武装解除は怖いですね。
シンプルでありたいと思う傍ら、
今まで蓄積したもの、
手に入れたものを手放すのは
正直勇気がいります。

まあ、これは宿題ですね。

父の故郷には
病気で仕事を辞め、
今は自宅で療養している親族の女性がいます。
なんらかのヒーリングワークで
その彼女が何とか治らないものか、
でも親族だけに、どう切り出すか、
もし治る兆候もない場合は
どう引っ込みをつけるのか、など
ぐだぐだ考えていたのですが、

今回、8年間病気のために
家で寝たきりだった若い女性が
参加していました。
彼女は対面と遠隔計3回の施術で病気が治り、
家の仕事の手伝いをするようになり、
そして今回プラクティショナーに
なるために上京してきました。
その彼女が最終日に、涙ながらにシェアしたのは
「8年間寝ていた私がここにいる事を、
単に 奇跡 という言葉でくくりたくない」

このシェアを聴いて、そして親族の事を考えた時に、
私が本当に提供したいのは、
「治す」ではなくて、
もし彼女が人生が閉じられていると感じているなら、
「可能性」を提示できる事だけだ
と思いました。
治すとは、勝手な思い込み以外の何物でもないですね。

もちろん、治ってくれれば、正直嬉しいですが、
決めるのは深いところで、本人だし
目に見える先を
進まねばなりません。

8年前の初受講は
終わった後、
自分もこの周波数が出せる!
遠隔もできる、と
興奮気味、ハイテンションになっていました。

今回はそれはありませんが、
その分、理解が進んだような気がします。

コアな週末でしたー。

http://reconnecting-japan.jp/
知人から、面白い内容のメールを頂きました。
一部、ご紹介させていただきます。以下、

昨日読んだ本に書いてあった「フラミンガム・スタディ」のことです。

アメリカでの調査ですが、
あるひとつの地域の中で共通の属性を持っている人たちの
集団を調べるのだそうです。
だいたい対象はやはり病気のことが多く心臓病や高血圧などです。

しかし別のもうひとつ興味深い内容があって、
それは幸福度についてのものでした。
幸福だと感じて生きている人を地図上にプロットすると塊になっているのだそうです。
逆に不幸な人も塊になる。
いずれもそれは3段階に及んで友達の友達の友達まで
含むそうですよ。

以上が抜粋ですが、
面白い結果です。
以前、矢野さんという「大地の再生」士の方が言っていた言葉を思いだしました。
それは、環境の改善は、行政や団体が行うことから始めるのでなく、
例えマンションであろうと、まず個人がそこの環境を変えることができる
つまり、光通し、水通し、風通しのことなのですが、
それが一つの点とするならば、
点が集まると、線になり、線が集まると面になる、
というものでした。

これは人体というミクロから
地球というマクロまで
全ての事柄に当てはまると思います。

残念ながら、昨今の情勢を聞くと、
これが負の面として発露しているのが、
イスラム過激派などに触発された人たちの
テロ行為なのかもしれません。
先日の英国の選挙も、
プロパガンダ的な宣伝に嵌った集団の思考が
何らかの作用を及ぼしたかもしれません。
なんでも、ナチは、それこそ数多くの 「国民投票」を 取り入れて、
民意、という同意の上で
あの帝国を創り上げたそうです。
過去の話じゃないなあ…


正も負もなく、
塊、というのは
力を持つものですね。

これから選挙があります。
投票する、しないに関わらず、
自分という存在が
そのコミュニティの中で
何らかの化学反応をおこす役割を
担っている事の自負は忘れないように
したいものです。

先日、渋谷文化村で上映されている
「ある終焉」というアメリカ映画を観ました。
http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/16_chronic.html

優秀で、介護する人のために
とことん尽くす初老の看護師。
彼が関わる人達との中で、
そまざまなテーマが浮上してきます。
老いる事、介護と家族の介入、セクハラ、安楽死など。

観ていて、明るい映画ではありません。
かといってことさら
ドラマチックに作られている訳ではありません。
淡々と、ドキュメンタリー風なタッチで、
最後はちょっと衝撃の結末なのですが、
それすらも突き放した見方で、
ここで浮かび上がるテーマへの応えは
観る人それぞれが抱る、宿題のような形になっています。


数週間前は、あるドクターのお話会、
テーマは緩和ケアでした。
以前と現在の緩和ケアの考え方の違い、
そもそも緩和ケアとはなんぞや、
という話しで、短い時間でしたが、
これまでぼんやりとしか考えて来なかった事柄を、
少し明確に知る事ができました。

例えば、がんの治療では、
以前は「治すための治療」をまずして、
治療の痛みにも耐え、
そしてそれが駄目なら、
死に向かっての痛みを和らげていく
「緩和ケア」という線引きが
きっちり引かれていたのですが、
現在は治癒のための治療にも、痛みを和らげながら、
という考え方が入り始めている、との事でした。

ふと周りを見渡せば、
至る所で介護や認知症などの話題に溢れています。
いつかは、老い、病、そして死、
と向き合うことになる。

死に向かっていく時間の中で、
最善な生き方はなんだろうと、
真剣に考える時期にきているようです。