先日ご紹介した陳情書を書いた方と同じ読者さまから、今度は歴史を観点にした内容のものをコメント欄にいただきましたので、またご紹介させていただきます。

とてもよくまとまっていて、よく読みこんでいくと女性天皇の正当性が理解できると思います。

これを読んで、国会議員の頑固な👴たちが思い込みを外してくれることを祈ります。

 

ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1

 

「双系継承と女性天皇-男系男子継承は本当に日本の伝統なのか」
皇位継承における男系男子説、これが何故現在の定説のように喧伝されているのか、そしていかに開かれた皇室、日本の未来への障害になっているのかを考えてみたいと思います。
それには歴史学の新しい知見が欠かせず、従来の神話的解釈からは外れることをご承知おきください。
先ず神武天皇即位より2600年経過というのはあくまで神話で、実際は長く見積もっても1800~1900年程度と考えられます。
卑弥呼の魏への使節派遣は239年。卑弥呼が九州の一国の女王なのか、ヤマト王権に連なる存在なのか結論はまだ出ませんが、ヤマト王権の始まりもこの当たりと思われます。
そしてこの時代はまだ男系継承などは未確立であったことは明らかで、最近の歴史学も6世紀くらいまでの双系継承を認めています。
卑弥呼の死後は男王が継承、しかし国が乱れ、その後卑弥呼の宗女(一族の女性)台與が女王の座を継承しています。正に双系継承の時代であったと言えるでしょう。
そして現在天皇のアイデンティティとも言われる祭祀権は、この時代は寧ろ女性にあったと思われます。

双系継承の良い例は、応神天皇5世の孫と伝わる6世紀初めの継体天皇ですが、当初は継承のレジティマシーを得られず、ヤマト周辺を転々としました。
大王としての正当性を得られたのは、前王朝の皇女手白香皇女を皇后(大后)としたからで、その間に生まれた欽明天皇が皇統を継承していきます。前王朝と関係のない先の妃所生の安閑、宣化の両天皇も即位しましたが、皇統を繋げることはできませんでした。
もし男系優先であれば、当然長子の安閑天皇から皇統がつながっていたでしょう。
手白香皇女の系統が優先されたのは双系継承だったからに他なりません。

欽明天皇の皇女が初の女帝とされる推古天皇です。
その前にも神功皇后や飯豊皇女の即位を認める説は有力ですが、明治維新後削られたようです。
推古天皇後、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)と女帝の世紀と言われる時代を迎えます。中継ぎどころではない偉大な業績を上げた方も多く、再評価されるべきと思います。
又、元明、元正は母から娘への女系継承とも言えます。元正天皇の父は皇太子草壁皇子ですから男系とも辛うじて言えますが、やはり双系が正しいでしょう。
その後藤原氏の時代となり、天皇に息女を入内させて権力を得る政治体制の確立があり、続く院政、武家政権の性格上、女性天皇は途切れ、男系男子継承が続きます。
しかし江戸時代には明正、御桜町の2代の女帝が見られます。
徳川秀忠の外孫明正天皇は政治的理由から859年ぶりに女帝として即位し、唯一中継ぎ的天皇と言えるでしょう。
しかし御桜町天皇は甥(後の御桃園天皇)の存在にも関わらず即位、女帝の伝統は1000年の歴史を経ても尚、消えていなかったことを証明しています。
この御桜町天皇こそ現天皇家の祖、傍系から即位した光格天皇に、上皇として帝王教育を授けた方です。崩御は1813年とたった200年前の事です。
天明の大飢饉の際、三万個のリンゴを民衆に配り、優れた歌人、書家でもあったこの偉大な女帝をたった200年で我々は忘れてしまったのでしょうか。
又光格天皇は前王朝の後桃園天皇の皇女欣子内親王を皇后とすることで正当性を得ましたが、これは継体天皇のケースとそっくりで、双系の伝統も消えていなかったことが確認できます。

イギリスは女王の国と言われていますが、その数はエリザベス2世まで6人、日本は10代、8人、外されてしまったお二人を入れれば10人となります。
日本こそ世界に冠たる女帝の国だったのです。
因みに男系男子継承の法的確立は、明治時代1889年に制定された旧皇室典範からにすぎず、135年の歴史しか持ちません。

これで男系男子継承が日本の古来からの伝統などど軽々しく言えるでしょうか。
皇室典範は戦後新憲法の精神に則り、直系長子相続へととっくに改正されていてしかるべきでした。
そして今こそ憲法と皇室典範を整合させ、真の民主主義国家としての日本を再建すべき時と考えます。
国民の象徴に相応しいお姿で、天照大神が遣わされたような敬宮愛子内親王殿下を拝するたびにその思いは強くなる一方です。
世論調査でも8割を超えた、女性天皇支持の国民の総意に立ち返り議論を進めて戴きたく、お願いいたします。