私が考える責任。
行く私は集団のスケープゴートか?
揚げ玉にされ、気持ち悪い雄猿の何かの盾になったり、
誰かのための、犯行に走った人間として祭り上げられている。
そんな気はしていた。
ここでいう責任はその取り巻いていた状況で与えられたものということができる。
そんな一面と、私が学んで考え、思い行ったことが、責任は個人に与えられたギフトのようだとも思う。
責任は社会生活を行う上で、自身が行為者であることを示すためのものである。
責任を取れることが社会生活を行える証明である。
あくまで個人が一人の人間として生きる規範だと考えている。
そして自分の人生に確かな意味づけができなければ、私自身責任が持てないと考えており。
責任を与えられるのは勿体無いとも考えている。
その自分の人生の意味づけを、爆弾があっったほうがいいのか?
なかった方がいいのか?わからないけれど一生懸命行なっている。
今考えている意味づけは、出口保行氏著、危ない子育て。
の事例にも書かれているような、頭で考えていることを叶えてやりたい何がしかに近いものと考えたほうがしっくりくる。
途中、自分が頑張っていることで、前向きなチャレンジ、成長、実現のようなことで私自身経験が多かったが、
いつの間にか、考えていること夢を叶えてやることの過保護的な様相が濃くなり、気持ち悪いアベックや、頭への他者の侵入なども経験した。
また爆弾に関しても、私の今の問題とならないような生活を送れている状況から
果たして必要なものだったのか?どのような意味があったのか?
その意味づけができた時、先生にこちらからきちんと的確な質問が投げかけられるというものだと考えている。