新馬戦は大差勝ち、続く2戦目、3戦目のデイリー杯3歳S(現2歳S)を圧勝して翌年のクラシック候補一番手といわれた。


1992年、ビワハヤヒデのデビューは鮮烈だった。


競馬関係のメディアはビワハヤヒデをもてはやした。


この馬をもてはやした原因は強さだけではなかった。


タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーンと芦毛のスターホースが相次いで登場し、時代は稀に見る芦毛ブーム。


マックイーン引退後、芦毛のスターを待ち望んでいたファンとメディアにちょうどよくあらわれたのがビワハヤヒデだった。


芦毛は身体全体が灰色ぽい色をしており、年齢を経ると真っ白になる。


白馬というのはいいイメージがあるのか芦毛は女性に人気があった。


現役時代はくすんだ灰色でも、のちに真っ白に変貌する。女性は白馬の王子様のイメージが強いんだろうか。


それはさておき、次代のニュースター候補となったビワハヤヒデ。


次は3歳(現2歳)チャンピオンを決める朝日杯3歳S(現フューチュリティS)に出走。


ここで勝てば文字通りスター誕生である。


このときわたしは初めてビワハヤヒデの動いている姿を目にする。


第一印象は「顔デカ!」


そう、ビワハヤヒデはサレブレッドとは思えないほど鼻が長くデカ顔だったのだ。


サラブレッドは一般的に小さい顔のものが好まれる。これは人間でもそうだが、馬の場合は意味がちょっとだけ違う。


見栄えの良さという意味では一緒だが、競走馬としては小顔のほうが全体のバランスが取りやすく走るのにいいとされていた。


これまでの名馬と言われる馬は小顔が多いためでもあったからそういう説ができたのかもしれないが。


ところでデカ顔のビワハヤヒデ。パドックをまわっていると、周囲のひとたちは彼を見て笑っているものも多く見られた。


そしてレース、はというと、これが初めて2着に破れてしまう。


勝った馬が外国産馬だったため、それでも翌年のスター候補の座は揺らがなかったが、スター誕生にはならなかった。


歳が明けて第一戦目、共同通信杯4歳S(現共同通信杯)でまたもや2着。


たんなる早熟だったのか、と競馬関係者の熱は冷めかけてきていた。


ちなみにこの時点でわたしはビワハヤヒデになんの興味もなかった。


続く若葉S。ここで陣営はそれまで主戦として乗ってきた岸騎手を岡部騎手に変更をする。


これが当たったのか、ビワハヤヒデは勝った。


そしていよいよクラシック第一弾、皐月賞。そこには後に3強と呼ばれるようになるライバル2頭がいた。


ウイニングチケットとナリタタイシンである。


ウイニングチケットは先日勇退した伊藤雄二調教師がダービーを勝つ馬として柴田政人(現調教師)に預けた馬だ。


当時、岡部騎手と並ぶ名手と謳われた柴田騎手のダービー制覇という悲願は競馬関係者のみならず、一般の競馬ファンにも知られていた。


「政人にダービーを!」


競馬ファンの多くはどこかでそんな気持ちで見ていたクラシックだったはずである。


そしてナリタタイシン。皐月賞前の弥生賞から武豊騎手に乗り変わった。とにかくゴムマリのように弾む全身バネのような馬で、その末脚は並みいる馬たちをなでぎってきていた。しかし、このときはまだ一脇役にすぎなかった。


皐月賞は弥生賞を鮮烈な後方一気で勝ったウイニングチケットに人気が集中して、それをビワハヤヒデとナリタタイシンが追う様相となった。


このレースを予想したとき、ひねくれもののわたしはウイニングチケットが勝つとは思えず、2番人気のビワハヤヒデを本命にした。


ウイニングチケットに関しては名前を見たときから「ダービー馬はこれだ!」と思っていたが、皐月賞・菊花賞を勝って3冠馬になれるほどとまでは思っていなかったのである。


そしてレースは、意外な展開をみせた。中山の最後の直線、伸びてくるはずのウニングチケットは伸びてこない。


先行策のビワハヤヒデは4コーナー先頭でゴールへとまっしぐら。残り100mというところだった。外から矢のように飛んでくる一頭の馬がいた。ナリタタイシンである。4コーナー最後方にいたナリタタイシンは武騎手の合図に反応すると、そのバネのような筋肉を躍動させゴールへと迫ってきた。


そしてゴール。ナリタタイシンはビワハヤヒデをかわしていた。


わたしはナリタタイシンとの組み合わせも買っていたので馬券はとったが、すこし納得できなかった。


実をいうとウイニングチケットとの組み合わせを一番多めに買っていたのだ。


そのわけは番号にある。この年の皐月賞は4月18日に行われた。


数字の暗号馬券の好きだったわたしは18番にはいる馬を本命にしようと決めていた。そしてその18番にはいったのがビワハヤヒデだった。ウイニングチケットは4番、ナリタタイシンは14番。


「4月18日だけに4-18で決まり!」


と、わけもない理由でひとり悦にはいっていた。


結果は馬連14-18。ちなみにその後4月18日に行われた皐月賞では、またもや14-18がきている。2004年の皐月賞。競馬ファンが北海道道営のコスモバルクの地方所属馬初のクラシック制覇なるか、と思った、あの皐月賞である。


話を元に戻す。結局、中途半端なかんじが残った皐月賞。それがビワハヤヒデにのめりこんでゆくきっかけになった。


わたしは2着に負けた馬に妙な感情移入をするところがある。「なんとか勝たせたい」この想いが負けた馬を追いかけてしまう悪癖になってゆく。(このおかげでどれだけ損したことか)


好きでも嫌いでもなかったビワハヤヒデにもこの感情ははいってしまった。それでもダービーはすでに決めていたのでウイニングチケットからいった。


初めて3強と呼ばれたダービーはその名の通り、直線ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンが競り合った。乗っていた騎手も柴田政人、岡部幸雄、武豊、と当代きっての名手たちばかりだ。まるで誰かがシナリオでも書いたような、マンガになるような設定だった。


結果はウイニングチケットがダービー馬になり、ビワハヤヒデは2着、ナリタタイシンは3着だった。


夏を越して秋になった。ビワハヤヒデには菊花賞しか残っていなかった。


ビワハヤヒデは秋初戦、神戸新聞杯でそれまでかぶっていたメンコをとった。デカイ顔がよりデカく見えた。メンコをとってすっきりしたのか、神戸新聞杯を圧勝して、いよいよ本番に望むことになった。


迎えた菊花賞、3冠で初めて一番人気に推された。そして期待通り2着馬に7馬身差で圧勝する。


このとき、わたしは完璧にビワハヤヒデファンになっていた。


その後、有馬記念ではトウカイテイオーの奇跡の脚に破れるものの翌年は春の天皇賞、宝塚記念を連勝。前哨戦から合わせて重賞3連勝で飾った。


この年は1歳下の半弟のナリタブライアンが2冠を獲得して人気沸騰していた。当時、相撲の若乃花、貴乃花になぞらえて競馬界の若貴などとも呼ばれた。


そして秋、ビワハヤヒデ陣営はオールカマー、秋の天皇賞、有馬記念出走のプランを発表。ジャパンカップを入れていないことに関係者から強い不満がもれてきた。


古馬最強になったビワハヤヒデが出走しないのはおかしい、との意見がとびだしたのだ。


たしかに日本の古馬最強馬として海外の強い馬との対決が見たい。誰もが願うシチュエーションだろう。


「連対記録にこだわるのか」


そんな意見もあった。これまでの日本の競走馬で3冠やGⅠをいくつも勝った馬の中で連対100%はシンザンだけであった。


あのシンボリルドルフでさえ日本のレースで3着が一度あった。(4歳時(現3歳)のジャパンカップ)


(ディープインパクトは日本では連対100%)


3冠馬になれなかったビワハヤヒデが後世にまで語り継がれるには誰も成し遂げていない記録が必要で、シンザンと並ぶ記録樹立のためにジャパンカップをはずしたのだろう、と外野はわめきたてた。


しかし、それは違った。


ビワハヤヒデの浜田調教師にはある考えがあった。


ビワハヤヒデの体調面を考えてローテーションをつくってゆくと、レースとレースの間に最低40日の間隔が必要だった。天皇賞とジャパンカップの間は約1ヶ月しかない。


ビワハヤヒデを出走させるかぎりには絶対負けないようにする。それが現役最強古馬としての使命だと浜田調教師は考えていたのである。


この年すべてを勝てば翌年ジャパンカップを狙う。そこまで師の構想は練られていた。


しかし、それはすべて夢と消える。


ビワハヤヒデは秋の天皇賞で5着に破れ、その際に脚を痛めて現役続行が不可能になった。


結局、ナリタブライアンとの兄弟対決もできないまま引退となった。


はじめから好きな馬ではなかった。でも、笑いさえ誘うデカ顔はよく見ると愛嬌があって可愛いく見えてくる(ファンの欲目)


戦績は16戦10勝2着5回5着1回。派手さのない堅実を絵に描いたような馬だった。


どんどん強い馬が出てきて忘れ去られていくかもしれないが、地味でもこんな馬がいたんだと知ってもらえるとうれしいと思う。


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