こちらも古い記事なのですが、ハギは最近までこのお写真を見たことなくて、
つい最近発見して、すんごく気に入っているので、、、
(いかがででしょう? みなさまの好みにも合うかしら?
ハギは久々、ガツンとやられたお写真 なのですけど・・・)
ちょうど 『The Phone』 の頃のミスターラジオをご紹介したところだし、、、
・・・と、いうことで、ご紹介しちゃいます
元の記事はこちら⇒
http://www.yeongnam.com/mnews/newsview.do?mode=newsView&newskey=20090220.010410737150001
映画 『The Phone』 の中のパク・ヨンウは、映画の始まりから30分が過ぎても自身の存在を表さない。時々受話器を通して声を聞かせるだけで、観客には彼が誰なのか、また、何を望んでいるのか、まったくもってわからない。だからだろうか。受話器の向こうから聞こえてくる彼の冷たく断固とした声は、実態が明らかになるまで、どんなイメージより強烈な響きと存在感で観客に迫ってくる。
映画 『The Phone』 は、1分1秒すらケータイなしでは生きていけない芸能プロダクションの社長スンミン(オム・テウン)と、偶然彼のケータイを拾ったチョン・イギュ(パク・ヨンウ)との死闘を描く。ケータイという単純なテーマだが、二人はこの媒体を通して現実とぴったり寄り添う複雑な利害関係を終始強烈に表出する。
スンミンは、仕事の成否を左右する情報の保存されたケータイが世に出ては困る立場であり、職業上イエスマンでいなければならないチョン・イギュはそれまで抑えに抑えてきた感情をスンミンのケータイを通して解消したいという欲求を覚える。
まさに前日、知人たちと深酒をしたという、いくらかむくんで見える顔のパク・ヨンウに、12日、インタビューさせてもらった。
「昨日はテウンさんと私が声をかけて、監督や関係者のみなさんと久しぶりにお疲れさま会をやったんですよ。撮影中はとにかく時間に追われて、お酒の席もほとんどありませんでしたから。おかげで二日酔いかまだ完全には抜けていないようです(笑)」
パク・ヨンウは、大型スーパーマーケットの顧客センターで働く平凡なサラリーマンであり、<感情労働者>でもあるチョン・イギュを演じた。<感情労働者>というのは、顧客の感情に合わせるため自分の感情を押し殺したまま仕事に従事する人々を指す言葉だ。人生の大部分を、感情労働者として生きてくるしかなかったチョン・イギュが、匿名という麻薬に酔い、溜め続けた感情を爆発させる姿は、観客の共感を呼ぶに十分だ。パク・ヨンウもやはり同感だと言う。
「そのとおりです。どこか自分の話のようでもあり、誰でも一度は経験したことのようでもあり、そういう共通の分母が形成されると思います。実際、社会生活を営んでいる人は誰しも感情労働者だと言えるでしょう。この映画の魅力も、ケータイという単純な素材を通して多様な感情を類推することができる点です」
彼は、チョン・イギュというキャラクターに、自身の学生時代を映し出したような奇妙な魅力を感じた。中・高校時代にはひとりも友達がいなかったと断言するくらい、彼はちょっと変わっている。「子どもの頃から、みなと語り合い、コミュニケーションを取りたいと願ってはいたものの、上手くできませんでした。そういうときは、自分を慰めるのです。僕は他人の立場で考えすぎるのだって。ためらいなく感情を表に出すことができていれば、日常的につきあいができたのでしょうが、感情をどう表現したらいいのか、方法を知らなかったのです。自分が何か話すと、周りの人はそれを誤解して傷つくんじゃないかって、まずそんなふうに考えたので」
彼が漠然とでも役者になろうと考え始めたのは、このことと無関係ではなかった。結局のところ、人間についてもっと深く知りたいと願っていたパク・ヨンウの、当然な選択だったと言えるだろう。今でも時間が許せば、心理学を学びたいと考えている。そういう意味で、多様な人物像に接し、人間の内面を探究することのできる俳優という職業は、彼の天職だと言えるかもしれない。デビュー以後、ひたすらこの道を進んできたのも同じ理由だろう。自然に、スターへの道も開かれた。映画 『血の涙』 を起点に、2006年は1年の間に3つの作品が劇場公開されたように、忠武路(韓国映画界)スタメンのひとりだ。
作品を選ぶ基準が気になった。
彼は、「とにかく、キャラクターに憐憫を感じなければだめだ」と言う。そしてそれは、シナリオを繰り返し読んだからといって感じられるものではないと付け加える。「私はどちらかというと、作品の深層に隠されたものを読み取ろうとするタイプです。カット数や配役の意味、比重ではなく、シナリオを読んだときにその人物に対して心から共感できるかをまず考えます。すなわち、その人物が表現しようとする感情を、私がどれだけ受け止められるのか、また、どれくらい理解できるのかによって、演じたいと思うキャラクターが見えてくるし、そういう作品を選びます」
だからだろうか。彼が演じてきたキャラクターの数々は、ファンタジーというより現実に根差している。「ファンタジーの方が研究するのも演じるのも簡単です。だって、正解がないんですから。それに、とにかくテンポよく行動してセリフを言えば本人もそんな気分になってきます。しかし私は、感情を胸の内で熟成させるようなキャラクターを演じることが多かったので、演じながらも常にそれが適度なものなのか、悩むことばかりでした」
劇中のチョン・イギュも、同じように考え悩んだ結果生まれたキャラクターだ。何より、「この人物は絶対に格好良く見えてはいけない」という点を忘れないよう努力した。そのため、今でも彼(イギュ)のことを考えると、可哀想で涙がでるほどの憐れみを感じるという。
役者としての目標を尋ねると、ただ「演技を長く続けたいだけ」だと淡々と答える。そこには、「最大限、卑屈にならずに」という前提条件が付くのだそうだ。「比重の小さい役しか回ってこないかもしれないと心配し、もう少し広い家に住むために演技しなければならないような焦燥感の見える姿ではなく、端役であっても観客の琴線に触れることができ、年を取っても演技そのものを尊敬し、好きでいたいと思います。<ケータイ>がチョン・イギュの脱出口であったように、パク・ヨンウの脱出口は演技です。幸福、というと何だか硬すぎますが、自分としては一番得意な分野で、満足できる人生を送るための脱出口です」
(訳文文責:ハギ)