むふふ。
『今愛』 と 『ワンス』 のときのグラビアは、ホント、見ごたえたっぷり ^o^
特に 『ワンス』 はモノクロ写真から匂い立つ色香がなんとも言えずステキです
続いてご紹介するのは、VOUGEのインタビュー記事
~彼と彼女~
信頼できる俳優 パク・ヨンウと、愛される女優 イ・ボヨンが 1930年代の京城を訪ねた。
ポングとチュンジャに、あの日いったい何があったのか?
彼と彼女の "ワンス・アポン・ア・タイム" 演技と映像風景
今年、映画界のトレンドは "1930年代の京城" であり、時空間の背景を借用した 『ワンス・アポン・ア・タイム』 (1月31日公開) は何よりトレンディな映画と言えるかもしれない。
トレンドとは、消滅することを前提にするのではなく、当代もっとも強烈なモチーフの存在であると同時に時代を代弁する証拠でもある。
そういう意味で パク・ヨンウとイ・ボヨンは、時代の要求と嗜好が生み出した俳優である。
パク・ヨンウは、現在もっとも忠武路で信頼されている俳優であり、イ・ボヨンは現在もっとも完璧な女性像のイメージを作り上げることのできる女優である。
パク・ヨンウは、ここ2年の間に4編の映画に出演し、イ・ボヨンはCMスポンサーからひっきりなしのラブコールを受けている。
パク・ヨンウは深思熟考した後に口を開くタイプで、イ・ボヨンは勢いよく話してから、記事にしないでと泣きつくタイプだ。
正反対の男女二人が、1930年代の京城へタイムスリップした。最高の詐欺師と怪盗になって。それは、パク・ヨンウの言葉を借りれば、変身ではなく変化だという。
パク・ヨンウは、卓越した俳優の顔を持つ。演技を始めて優に10年以上経っているが、依然としてどんな顔でも描くことのできる白紙みたいだ。キラキラした目にセクシーな鼻、対照的に繊細な顎のラインと自己主張の強そうな唇。眼の下にはいい塩梅のシワが刻まれている。肌が白いので多少影が薄い印象を受ける。しかし、彼の眼は違う。なにを考えているのか予測できない。無気力に感じられるほど善良かと思えば、限りなく高揚して卑劣にもなる目。コメディーとスリラーが好きだと言う彼の言葉どおりだ。
ソン・ガンホの顔が喜怒哀楽を同時に合わせ持っているとすれば、パク・ヨンウの顔は感情の極限をいとも自然に行ったり来たりする顔だといえる。
そんなパク・ヨンウは、まるで多重人格者のようだ。
心の傷と秘密を隠し持った 『血の涙』 のキム・イングォン、剛直で賢明な高麗の武将 『武人時代』 のキョン・デスン、この世で一番小心な男 『甘く、殺伐とした恋人』 のファン・デウに至るまで、ひとくくりにはできない癖のある男たちが、無色無臭のパク・ヨンウに乗り移る。
ひいては 『シュリ』 に、日和見主義要員として少しだけ登場した彼は、ハン・ソッキュよりも長く話のタネになった。
そして、『ワンス・アポン・ア・タイム』。詐欺師ポングという、ルパンを連想させるファンタジーな役を任された彼は、自身の多様なイメージを一幕ごとに完結する短編ショーのように魅せてくれる。観客にすればそれは、申し分のない誠意あるサービスだ。
「白紙のような顔ですか? よく言えば配役に忠実だと言えるし、一方でキャラクターのカラーをしっかりとつかめていないとも言えますね。まあ、どっちでもいいです。僕は今の僕の経歴に満足している方ですから。この先も、悪くなかったって思うことができれば幸せです」
いつの間にか主役に抜擢されるようになったパク・ヨンウにとって、"主演俳優パク・ヨンウ" と書かれた椅子ほど重荷に感じられるものはない。
「じゃあ、助演で出れば"助演俳優パク・ヨンウ"って書かれるんですか?」と一人ごちる。
「今は主役としてインタビューを受けていますが、次の作品は助演、もしかしたら端役かもしれない。何十億ものブラックバスターの次に数億程度の低予算映画に出るかもしれない。選択の基準は自分が気に入るか、演りたいか、それだけです。僕はメジャーとマイナーの感性を合わせ持つ役者になりたいんです」
俳優とは、時代に使い捨てられる存在だ。
パク・ヨンウは、自分自身をどう使うべきか、自分に与えられた役がいつどこで折れれば作品が一層引き立つのか、といったことについて客観的な考えを持っている。心は熱く、身体は軽く。
ジャンルを問わずパク・ヨンウの演技がとても自然に見えたり、現実感をもって爆発するとき、我知らず鳥肌が立つ。これこそ、パク・ヨンウの演技の真価だ。
軽はずみな振る舞いや高飛車になったりせず、自分のポジションを守って与えられた役割をこなす者こそ最高だということを、賢明な人たちは認めるし、見抜くのだ。
「演技をさせてもらえること自体が幸せです。演技を始める前の僕を思えば、実に面白くない人間でした。人生で初めて、自分の意思を通したのが、演劇映画科への進学でしたから。両親に逆らったことのない大人しいだけの息子でしたからね。だけどそれが、僕にとっては実に大きなストレスだったし、自閉的な性格でもあった。演技を始めて、それが一層ひどくなりました」
「先輩からの圧迫、監督の冷遇、観客たちの冷淡さ、ショー・ビジネスで受ける心の傷・・・そんなものが、僕を強くしてくれました」
心の中で渦巻く感情が俳優には成熟へのエネルギーとなる。
おおよそ2年ごと、数編の作品を終えるごとに訪れるスランプの周期を、予測して甘受できるまでに彼は成長した。
パク・ヨンウの存在感はアイロニーだ。制作会社やスポンサーが会議を繰り返さなくてもキャスティングされるようになった彼は、それだけでも忠武路を代表する俳優に数えられるが、演技賞には縁が薄い。イム・チャンジョンのように観客にべったり寄り添うタイプでもない。
彼は非常に合理的で客観的である。
「どんな栄光を受けることになっても、たとえば転機を生んだ映画であっても、 "俳優パク・ヨンウ" を正しく捉えた監督にはまだ出会っていません。作品に主眼を置いて話し合ってきましたから。監督も、僕をイメージ化して見ていたと思いますよ」
彼は、自分で道を作って進んでは、そこに人々を招待する。時には誰かに招待されることもある。
少し前に "想像プラス" に出演した。シン・ジョンファンが横から彼にちょっかいを掛ける。目じりのシワが意外と多いですね。すると彼はわははと笑う。どのような反応を見せればもっとも笑いを取ることができるか、誰より知っているパク・ヨンウだ。 しかし、もしウケなかったら?バカにされるのが怖くて黙った。
だが、いざ演技となると、そんなふうにためらったことは一度もないと言う。彼のそんな二重性がパク・ヨンウ式演技を一層際立たせる。彼の素朴な終着駅は容易く、明快に、屈辱的でなく演技すること。そして、最近プライベートで幸せを感じたのは、初めて自分の家を持ったこと。川と山が見える場所に。
パク・ヨンウが、心という名の離れ部屋に閉じこもった少年であったとすれば、イ・ボヨンは広々とした部屋で世知辛い世の中から隔離されて育った箱入り娘だ。ひねくれたところのない彼女は、率直で楽天的であり、ふてぶてしくて歯に衣着せぬもの言いをするが魅力的だ。
実に、女優として挫折した瞬間ですら、「これでだめなら別の道を進もう」と肯定的に考えたのが彼女なのだ。「役者って、五感がとても発達した鋭敏な生き物なんですけど、私の場合、母の言葉を借りれば "ケセラセラ" なんです。実に平凡に何事もなく学生時代を過ごして、心理的にどん底に落ちたことも大変な苦労をしたこともないの。役者になってから、自分の人生がつまらなく思えたわ。役の痛みを共感することができないほど感情のスペクトラムが不足していると気づいたのよ」
ドラマを経て、映画 『卑劣な街』 のヒョンジュ役はそれほど比重のある役ではなかったが、彼女に問題提起した作品である。イ・ボヨンはこの映画で、春史映画祭新人女優賞を受賞した。
意図したわけではなかったが、イ・ボヨンはメディア・イメージの受恵者だ。
韓国において、新人女優がその存在を誇示する方法は二つ。
清純であるかセクシーであるか。
淡白な印象のイ・ボヨンは、当然ながら清純派のトップランナーだった。
彼女のかしましさと溌剌さを一瞥して見破ったのが、『薯童謡(ソドンヨ)』 のイ・ビョンフンPDだ。
目元にいたずらっ気たっぷりで、口さえ開けば愉快な話が飛び出してくる愛らしい女性が、ソンファ姫のはまり役。
『薯童謡』 の視聴率は期待ほどではなかったが、それはイ・ボヨンにとって大した問題ではなかった。
逆に、ベスト劇場 『ノ・チュンヒャン VS アン・モンリョン』 に出演、その年のベスト劇場最高視聴率を記録した事件も、特別なことではないのだ。
「私、次の作品では絶対成功しなきゃ、とか、注目を浴びたい、とかって思わないの。今もそうだけど、冷静よ。必死になって演じると、奈落に落ちそうなんだもの。私は幸せになるために演技するの」
彼女が 『ワンス・アポン・ア・タイム』 で演じたキャラクターもまた、 "思いつめることなく単純で、改善の余地が見えない、そこがまた魅力的な女" チュンジャだ。
堂々と希望を告げるイ・ボヨンは、だからこそ相手が乞い求めるよう仕向ける高慢な猫のようだ。
彼女は、チョン・ジヒョンやキム・テヒではない。
イ・ボヨンは、トップスターの座にいる彼女たちとは異なり、同じ空の下に生きているという現実感を与えてくれる。
平凡な日常の幸福が、顔にも身体にもしみついている彼女が、いくばくかの幻想と理想を我々に与えてくれるCMに出演すると歓迎される理由もここにある。
「芸能人の生活って、私の性格に合わないのよ。その上、芸能人になるための訓練も受けてこなかったし。私って愛想もないし、タフな方で、感情表現もまっすぐ、前に出るより後ろでぶつぶつ文句を言うタイプです。前でダンスを踊るより、静かな場所で親しい人たちとお酒を飲むのを好みます。今でも、何より孤独を感じるのは、私、どうしてこんなところにいるんだろう、どうしてこんなことしてるんだろうって感じる瞬間です」
もしも私が監督なら、イ・ボヨンに 『キルトに綴る愛』 や 『フライド・グリーン・トマト』 のような、女同士の友情と義理、日常を描いた女性映画への出演を提案するだろう。
役者が感情に水を注ぎ育てて、喜んで観客に映す存在だとすれば、イ・ボヨンはこの仕事を誰より楽しんでやり遂げることのできる女優の一人になるだろうから。
彼女の天真爛漫な幸福感は、誰もが羨むに値する。
「私、男の人にはモテないのよ。撮影がスタートしてすぐの頃、男性スタッフは撮影が終わっても家に帰らなかったの。私に近づこうとして。だけど2日しか続かなかった。その後は、私のことを男みたいに扱うの。あはは」
それが、たとえ嘘でも構わない。こういった類の話を、愛らしく語れる女性は多くない。
その上彼女の望みは、後輩女優たちを偏見なく娘のように可愛いがることのできる、品のある老女優になることだとは!
撮影のテーマは1930年代 国籍不明の空間、男女の風景だ。
どんな対話がされたのか、どれほど決定的な事件が起こったのか、誰も知らない。
無重力の空間にも等しい、馴染みのないこの場所は、つい考え過ぎてしまうパク・ヨンウと、
思考が明快なイ・ボヨンが、各々固有なイメージのスペクトラムを拡張させるに持って来いだ。
この二人は、全く相容れないようにも見えた。
それでも変わらないものがある。
パク・ヨンウが、イ・ボヨンが、時代に関わらず常に現実に足を付け呼吸する俳優になりたいと願う単純な事実。
末長く何かを続けたいと思う欲望は、どれほど純真で正直なことか!
(訳文文責:ハギ)