『Once』の時の MARIE CLAIRE | パク・ヨンウ☆だぁ~い好き(*^^*)  

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パク・ヨンウ氏にぞっこんの
ハギのブログです。
出演作品を通して、
彼の魅力を徹底分析しましょ♪       

こちらの記事は、インタビュー形式ではなく記者さんの独断と偏見がたっぷりなのですが・・・

やはりグラビアが素敵なのでご紹介しましょうね^^)v




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俳優を定型枠の中に閉じ込めてしまう要因はいくつもある。

習慣と化した演技、似たり寄ったりな役柄の反復、時には欠点のない彫刻のような容貌がありきたりの俳優を生むこともある。

どんな理由にしろ、一度定型枠の中に入ってしまった役者が、その枠を壊すのは容易なことではない。


数年前まで、パク・ヨンウもそんな、ありきたりの俳優の一人だと思っていた。

人が良く誠実で安全な男との結婚は、無難だけれど面白くもないとわかっているように、よく笑い親切で優しい男のイメージから大きく外れることのない彼の役を見ながら、私はパク・ヨンウが、ありきたりの俳優の一人だろうと考えていた。


だが、映画 『血の涙』 を見て考えが変わった。映画の終盤に重量感を加える重要なキャラクターであったが、そのせいだけではない。

上品な印象に一役買った肌の白さは、蒼白なまでに感じられ、低く落ち着いた声は優しさよりも冷淡に響いた。無表情の中に冷笑と憎悪を吐き出す演技は、間違いなくパク・ヨンウという役者の型を打ち破った。






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 私は、パク・ヨンウの二重瞼に縁どられた大きな瞳から笑いが消えたとき、冷酷さと残忍さが現れるのだということにようやく気づいた。


せっかくなのだから、性格俳優用の映画をこの機にいくつか続けて撮ればいいものを、彼が撮った次の映画は 『甘く、殺伐とした恋人』 だった。


 猟奇的な素材のコメディー映画、という程度に紹介されたこの映画は、いざ渋皮まで剥いてみると越えないように設定したはずの線まで越えて、最後まで疾走し尽くした残酷なユーモア、日常とさりげなくつながる極端さを含んだ独特なブラック・コメディーであり、マニアの間で前作とまた違ったパク・ヨンウを発見できる映画となった。


 さらに 『私の小さなピアニスト』 『静かな世界』 『ビューティフルサンデー』 『今、愛する人と暮らしていますか?』 に至るまで、わずか2年の間にパク・ヨンウは、デビュー以来の10年間をはるかに凌ぐ注目を浴び、休む間もなく撮影を続けている。


 一編の映画を契機に、役者の演技力が飛躍的に向上することなど可能だろうか?

そうでないとすれば、世間に知られていなかった実力派の俳優が、ついに訪れたチャンスを上手くつかんだということだろうか?

まるで、これまでのあらゆる努力が存在しなかったかのように話す世の人々の言い草は、ときに役者を不快にさせ、悔しさを感じさせるものではないのか?





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「以前は、若気の至りと言うのでしょうか、自分はちゃんと準備ができているのにチャンスが訪れないのだと話したこともありました。でも、いざチャンスをつかむと、演技も変わらざるを得ません。今は、そのチャンスが僕を変えてくれた部分を受け入れられます。人生の経験で演技をカバーすることもできるんですよ。役者も結婚して子供を持つようになると演技に変化が生まれます。だから真の俳優は40代からじゃないか、なんて考えたりもして」


 豊富な声量に高音も見事で美しいビブラートを持つ歌手がいる。そう、歌が上手いという評価を自然と受けるような歌手。彼は歌の上手い歌手だ。

 一方、声ではなく "歌" を聴かせる歌手がいる。たった今タバコを一箱吸ったかと思うようなかすれた声であっても、ぶつぶつとつぶやくように歌うくせがあっても、声よりも歌を聴かせる歌手。彼もまた歌の上手い歌手だ。


 俳優も同じ。とび抜けたカリスマでスクリーンを席巻する俳優は、どんな役を演じようと彼の持つ強烈なオーラが消えることはない。


 ところが、パク・ヨンウが演じるキャラクターにはパク・ヨンウが見えない。無表情の中から突如はじける大きな笑い声を除けば、 "パク・ヨンウ式" の演技というものはほとんどない。(彼は実際そういうふうに笑う)


 個性のない演技というのとは違う。

 そんな彼の演技は、あえて個性を殺し踏みつけて役の中に入り込むように見える。

彼の映画では、常にパク・ヨンウよりパク・ヨンウが演じるキャラクターが見えるのだ。

映画を何本観ても、とうていパク・ヨンウという人物がどんな人間なのか推測がつかない。







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「役者に変身なんてありえません。あるとすれば変化です。マインドの違いですが、俺は役柄より俺自身のカラーで人気を博してやる式の俳優がいます。そういう人の場合はどんな役を演ろうと彼自身が見えるでしょう。アルパチーノみたいに。

 反対に、ダスティン・ホフマンやロバート・デュヴァルのような人は役柄ばかりが見えて役者が見えない。特にロバート・デュヴァルなんかは俳優としての名前も覚えてもらえないほどです。あえて言うなら、僕は後者のタイプに近いですね」


 パク・ヨンウは、良い役者は他のキャラクターのために身を潜ませることも知らねばならないと信じている。調和できるのがいい。


 しかし演技は善行ではない。

彼は、観客の記憶に残るダスティン・ホフマンは結局のところ 『トッツィー』 や 『レインマン』 での彼の姿だということを知っている。

だから時には、作品とキャラクターを天秤にかけ、キャラクター側を選ぶこともある。

大切なのは、彼がそういう事実を認めているという点だ。


 彼は自分自身を客観的にみつめることができるし分析もする。そうでない役者の方が多い。

だから俳優という人種は基本的にナルシストだ。それは多分、自分自らがキャンバスであり楽器でもある俳優という職業の属性のせいだ。


 キャラクターに共感し、自分自身をキャラクターに同化させながら役者の感受性は拡張する。しかし、その過程のどこかで道を見失えば、鏡のない部屋で練習するのと同様、演技に限界が生まれる。


「白か黒かという論理は嫌いです。どちらもやります。キャラクターに出会えば分析もするし、移入することもあります。でも、やればやるほど、キャラクターに溺れてしまうのは危険だと感じるようになってきました。もちろん、感性を働かせるのが重要な場合もありますが、理性的に役に接近しようと努力する方ですね」




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 彼は、新作 『ワンス・アポン・ア・タイム』 の公開を控えている。1940年代を背景にしたこの映画で、彼は日本に奪われた伝説のダイヤモンドを取り戻そうとする京城最高の詐欺師ポング役を演じた。


「読んですっと入ってくるシナリオを選びます。白黒論理で描かれたキャラクターでなければ幸いだし、これまで演じてきた役柄とできれば違った役を演じたい。毎回それが叶うとは思いませんが、演技しながら自分自身が楽しめるといいですね。

 今回の映画もそうです。相手役も気に入りましたしコミカルな面もありつつコメディーではありません。ウェルメイドな娯楽映画と言えるでしょう。撮影を終えた後に感じるのは作品ごとにそれぞれですが、今回は観客と一緒に見て、作品について冗談を言い合うこともできそうな、そんな気分です」


 彼は自然体でありたいと願って俳優になった。自閉的というほど内向的だった閉ざされた性格が、演技をすれば自然体になれそうな気がした。しかしそこにも拘束するものはたくさんあった。


 今や俳優パク・ヨンウは、それを越えたところにある演技を目指している。彼は、他人に対し強要も説得もしなくても丁重にもてなされる、匠として認められる芸人の道を進みたいと思っている。

その道で窮屈な思いはしたくない。それが、観客によるものであっても同じだ。


 それでも彼は、気持ちの通じることを信じる。観客が認める部分においては自ら認めたくない部分を、反対に観客が避難するような部分では、引き寄せ抱きしめて進む部分を探すという方法で罠に落ちないように進めばいいだろうと言う。


 あらゆることに結論などない。語り続けて進むこと。俳優パク・ヨンウが望むのは、そういう道だ。


(訳文文責:ハギ)