そして私は思い出す。

 

 

 

 

2.世界中の不幸せを集めて煮詰めたような

 

 

 

その頃の家庭環境は最悪と言っていいものだった。

家中に鳴り響く破壊音と怒鳴り声。まだ幼い弟達の鳴き声が聞こえた時は肝が冷えた。

私たち家族は一軒家で暮らしていたがそれはほんの僅かな期間で、その頃は狭い平屋に家族五人で暮らしていた。その為、耳をつんざく様な弟の鳴き声は自分の部屋に半ば監禁されていた当時の私の元にも嫌と言うほど届いていた。

 

一階建の家だったので、私は夜中に何度も窓から抜け出した。近所には立派な公園があって、そこでひとり池に映る月を眺めていた。

昼間はカエルやおたまじゃくし、小魚たちが泳ぐその池も夜となれば生命の気配は感じられない。賑やかな昼の公園とは打って変わり、まるで飲み込まれそうな静寂の中で私はどうしようもない孤独感にひたすら泣いた。

 

その頃から、母は私たち子どもを連れて祖父母の家に何泊もするようになった。おそらく離婚を考えていたのだと思う。祖父母は母を激しく叱責した。弟二人を義父に預け、私とともに家に帰ってこいと言った。母はそれに激しく反発した。母にとって私も弟も血肉を分けたかけがえのない子どもなのだ。誰の血が入っていようが入っていまいが関係のないことだった。母は私たち兄弟を決して離しはしなかった。祖父母の家を出て小さなアパートに引っ越した。寒い冬のことだったので、夜は凍えないように四人で寄り添いあって眠った。家具もないし狭いアパートだったが、そこに怒鳴り声や破壊音は響いていなかった。

 

しかし、間もなくして私たち四人は再びあの平屋に舞い戻ることとなる。義父は母にしおらしく詫びてみせ、「もう一度一緒になろう。お前がいないとダメなんだ」とその目に涙を浮かべていた。母は頷き私たちはまた家族五人になった。

 

けれど悪夢は再来する。弟はその頃身体が弱くてたびたび体調を崩していた。薬の殻を飲み込んだりして入院することもあった。

まだ赤ちゃんであった弟の入院には母が付き添った。平屋には私と義父のみが残った。

 

昼間は学校に行き、帰宅してからは家事の一切を行った。夕方の5時には父さんが帰ってくるので、それまでに荒れ果てた部屋の掃除をして、食器を洗い米を炊かなければならない。時計の針が進む音に怯えていた。夕方が大嫌いだった。

 

父さんが帰宅した際には必ず玄関までお迎えに行かなければならない。そうして笑顔でおかえりなさいと言わなければならない。私は義父が機嫌良く帰ってきますようにと毎日願った。

 

しかし、人間は言われたことをただこなしているだけではいけないのだと当時小学生だった私は思い知ることになる。「おかえりなさい」と告げて義父の機嫌が良いことを確認した私は早々に自室に引っ込んでしまった。それが良くなかった。

 

私は髪を引っ張られ、リビングに引き摺られた。何度も叩かれ罵られ、義父が満足するまで謝ることを強いられた。謝罪の気持ちなんてこれっぽっちもなかった。「父さんがどれだけお前達を大切に思っているか」をとうとうと語られたけど、ありがたみなんてカケラも感じらえなかった。けれど殴られるのは痛いから、私は謝った。「私が悪いです、ごめんなさい」なんて思ってもいないことを嘯いた。

 

ある日、昼寝していた私は下半身の痛みを感じて目を覚ました。ぐるりと部屋を見回す。そこに義父はいない。安堵した私はまた目を瞑った。私の下半身、性器のあたりがヒリヒリ、じくじく、熱を持っていた。けれど私は気のせいだと思った。そう思いたかった。

 

私は寝ることが好きだった。私は見たい夢を見ることができた。夢の中では怖いことなんて何もなかった。そこに私を傷つけるものは何一つなくて、空を飛ぶことも景色を変えることも自由自在に行える。まさに夢の世界だった。

けれど、素敵な空間で素敵な体験をする私を「それはまやかしだよ」と教える私がいた。そして夢の中で私は「そんなことわかってる」と追い詰められたような気持ちになった。「ずっと眠ってられないんだよ。夢から覚めてまたあの現実に戻るんだよ。私の生きる世界はここじゃないんだよ。」わかってる、わかってるよ。でもね、もう辛いんだよ。もう嫌なんだよ。目を覚ましたくないんだよ。もう、死んじゃいたいんだよ。

アラームが鳴った。祖父母が買ってくれた某キャラクターの置き時計。能天気な歌声が朝から響く。私はやっとの思いで毛布から這い出てリビングへ向かう。朝起きたら、まずは歯を磨いて顔を洗わなければならない。そして数分後には父さんを起こして準備をして、そのまた数分後には何を…何をしなければならないんだっけ?回らない頭で必死に考える。毎日が必死だった。

 

その頃から、記憶力が格段に悪くなった。さっき言われたことを思い出せない。何をしたかも思い出せない。でも、思い出さなければ怒られる。何度言ってもわからないのろまでダメな人間だと怒られる。殴られる。でも思い出せない。…疲れた。もう眠りたい。

 

弟の退院とともに母が帰ってきた。ほっとしたのも束の間、家の中はまた爆心地かと思うほど破壊音や怒鳴り声が響く様になる。

その日、私は部屋に閉じ込められていた。自室には鍵をつけられ、義父の許しを得た際にしか鍵は開けてもらえない。トイレを我慢する癖ができた。どうしても我慢できない時は窓から外に出て茂みで用を足した。用を足すついでに地面を這いつくばる虫に尿をかけたりした。「私って残酷だよね」とどこからか私が言った。

 

その日の喧嘩はいつにも増して激しかった。母の悲鳴にも似た声が聞こえてきてハラハラした。次の瞬間、いつもよりも強烈な破壊音が聞こえたかと思ったら、弟の鳴き声が聞こえてきた。私は夢中でドアをこじ開けた。火事場の馬鹿力とはきっとこういうことを言う。

リビングにある食器棚が壊れていた。弟を抱きしめ母が泣いていた。それを見下ろす義父がいた。そしてそのあとどうしたんだっけ?それは34歳になった今でも思い出せない。

 

そして母はまた私たち兄弟を連れて家を出た。母は弟達と引き離されそうになった一件で祖父母に対して警戒心を抱いていた。その頃の母は重度の鬱状態で、情緒が安定しないどころか壊れてしまっていた。誰のことも信用できず、信用できるのは腹を痛めて産んだ子どもだけ。私たちはまた家族四人で小さなアパートに引っ越した。でも、間もなく義父が謝罪に現れてまたあの家に戻る。それを何度も繰り返す。そしてそれを繰り返すたびに義父の暴力は過激さを増していった。

 

その頃にはもう、命の保障すらない状態だった。その日その日を必死に生きた。私は回らない頭で義父の機嫌を損ねないように立ち回りを考えた。自分の身を守る為ならば平気で嘘を吐くしそこに罪悪感もなかった。打算的だった。利己的だった。私はいくつも罪を犯した。「来世はせいぜい虫ケラだろう。」

 

いざというときのために手紙を書いた。大好きな祖父母に宛てた残酷な手紙だ。利用できるものは利用した。たくさんの人を傷つけた。だってしょうがない、だってこの家は終わってる。だって私には何もできない、もう嫌だ、もう逃げたい逃げられない。コンビニに「助けてください」と駆け込んだことがある。交番に手紙を置いたこともある。でもやっぱりダメだった。義父は嫌いだけどお母さんのことは好きだった。だからこそ大嫌いで、でも好きで。弟は私の生きる意味だった。義父に優しくされた僅かな経験を思い出し、義父への嫌悪の感情を否定しようとする私がいた。たくさん殴られたしたくさん罵られた、でもあのときは優しくしてくれた。でも、怖い。私は依存していた。読みかけの漫画の続きを読みたかった。でも死にたくて、でも覚えたい歌がたくさんあって、でももう生きることにも疲れてしまって、でも、でも。私は私がわからなくなってしまった。

 

また、お母さんが泣いている。弟の悲鳴が聞こえる。まだ小さな弟を義父は家具に向かって投げつけた。殺さなきゃ。と思った。義父を殺して、そして…私は?

そんなことはできなかった。私はダメな人間で、ダメなお姉ちゃんで、何一つ誇れるものなんてなかった。

 

授業中、先生に呼び出された。職員室へと向かった私はそのまま帰宅を促された。学校から出ると見慣れない車が停まっていた。お母さんと弟と、知らない男の人と、女の人?わけがわからないまま車に乗せられた私はぼんやりと外の景色を見ていた。一人目の弟をお母さんが抱いて、二人目の弟を私が抱いて。外の景色は一気に変わっていった。知らない場所、知らない建物。荷物はトートバッグに入った弟のオムツだけ。

建物に通された私たち家族は食堂で腰を落ち着けた。出てきた食事を無心で頬張った。確かその日は揚げ物だった。私は悪戯心でエビフライにカラシをつけて弟に食べさせた。弟が激しく泣いて、お母さんに怒られた。私は自分が怖くなった。私は今、一体何をした?ザワザワした心のまま私たちはその建物で夜を明かすこととなった。そこにはたくさんの女の人と小さな子どもたちがいた。おそらく、子どもたちの中での年長者は当時9歳かそこらの私だった。

 

その日から、私たち家族はそこで暮らすことになった。最初は大部屋だったけど、小さな子どもがいるからと個室に移れるようになった。

私はおねしょを毎日繰り返した。弟が他の子どもたちに虐められていた。それが許せなくて子どもたちをとっちめた。許せないからこらしめなくちゃと思う自分、そしてそれを止める自分。そして脳裏には義父の姿。私は義父にされて嫌だったことをその子たちにしようとしていた。私は良い姉であろうと必死だった。

 

私は数ヶ月間、学校に通えなかった。昼間は談話室で漫画を読んでいた。ブラックジャックに金田一少年の事件簿。絵を描いたり弟の世話をしたりしていた。この先どうなってしまうのか、不思議と不安はなかった。ただ、そこに怒鳴り声と破壊音がしないだけで十分だった。命の危険がないだけで、上手に呼吸ができる気がした。

 

 

 

世界中の不幸せを集めて煮詰めたような日々はまさに明けない夜のようだった。

 

 

 

続く