そして私は思い出す。

 

 

 

 

忘れてしまった子ども時代

 

 

男女関係において永遠などない。在り得ない。

言葉や態度で愛を示したとて、気が変わればそれはたちまち嘘になる。

巷では美化されがちな恋愛関係だが、実はとても醜くて不潔で打算的で……人はそんな魔法に自らかかりたがる。なぜ、そんな効率の悪い関係性に人は溺れるのだろう?

そんな事を思ったのはなんと私が小学校に進学する前の事だった。当時の私は世界を斜めに見るような可愛げのない子供だった。

 

初めて絶望を知ったのは小学校に進学してからすぐのことだった。

その頃、私の家族関係が少し変わった。母親が再婚して弟が二人生まれた。実の父親を私は「パパ」と呼んでいたが、二人目の父親を私は「父さん」と呼んだ。そう呼ぶよう教えられた。

姿を消した”パパ”への感情は特にない。ただ、母親が”パパ”がいかにひどい人間だったかをとうとうと語り続けたものだから、私は自分の父親をとても嫌悪したし母親を哀れにも思った。新しくできた”父さん”はとても優しそうな人だった。……最初のうちは。

 

”父さん”は私に完璧を求めた。一日に数時間以上も机に向かわされ大量の計算ドリルを解くことを強要された。従わなければ殴られたし暗い納屋に閉じ込められた。

私はなんとか工夫して計算ドリルを解いたフリをした。私のズルを見抜いた父さんは私を殴り物置に閉じ込めた。暗くて狭い空間で私は座ることもできないまま何時間も「早く時間が過ぎればいい」と願い続けた。

 

運動会の準備が始まった頃、私はリレーの選手になる為に特訓させられた。私はリレーの選手なんてどうでも良かった。

家の周りをただただ走らされるという苦行を毎日のように強いられた。従わなければ私がうんと頷くまで長い説教が続く。私が諦めることでその説教が終わることを学んでいた私はしぶしぶ頷いた。「なんだその目は」と言って怒られる。当時、私はどんな目をしていたのだろう。

私はなんとか楽がしたくて家の周りを走っているフリをした。家の中から見えるほんの僅かな距離だけを全力で走り、家の中から見えない死角に入ったらベランダの下を這いつくばりまた元の場所に戻る。いかにも長距離を走って疲れ果てている演技までした。そうしていかに楽してその時間が過ぎるかに全力を注いだ。私のズルはバレなかった。

 

家の中で怒鳴り声と破壊音が聞こえるようになった。私はまるで兵隊の様に規則正しい生活を強いられたが、怒鳴り声と破壊音は時を選ばず鳴り響き、私はその頃から上手に眠ることができなくなっていった。

 

私はおねしょをするようになった。布団が濡れないようにシーツの下にビニールのゴミ袋を敷いて眠る様になった。けれど毎日決まった時間に肌寒さで目を覚す。私のパジャマはぐっしゃりと濡れて身体は冷え切っている。

汚れたタオルケットを洗濯機に放り込んで、濡れた敷布団にバスタオルを敷いて二度寝した。朝、起きるのに苦労するようになった。眠くて授業は耳に入らなかった。

 

私はその頃、メンタルクリニックに通うようになった。なんと、その頃の私は夜中に近所の友達の家へ行く様になってしまったのだ。夢遊病となってしまった私は夜中、布団を抜け出し徒歩で友人の家へ赴き、インターホンを鳴らしていたらしい。その間の記憶は一切なく、けれどもご近所さんがザワザワと騒ぎ立てる深夜の住宅街でハッと目が覚めた私はどうしようもなく恐怖した。自分が自分じゃなくなっていくみたいだった。

 

メンタルクリニックではおもちゃの家や人形なんかを使って自分だけの町を作らされた。当時の自分がどんな町を作ったかは覚えていない。でも、ひとつだけ覚えているのは自分の好きなもので自分を模した人形の周りを固めていたこと。自分の好きなものの中に家族や友人は含まれていなかった。

 

小学校四年生の頃、私は3回目の転校を経験し、早くも友達を作ることを諦めていた。どうせまた引っ越しするかも知れないし。友達なんかいなくても良いし。誰も私を理解してくれないし。

けれどやっぱり一人は怖くてクラスの大人びた女の子とよく公園に行っていた。クラスの障害を持った男の子と女の子の世話をよく焼いた。誰かに必要とされたくてクラスメイトを利用した。

 

障害をもったクラスの女の子は優しい性格だった。けれど見た目が少し人と違って、引っ込み思案で自分をうまく表現できない子だった。男性生徒がその子にイタズラするのが許せなかった。力あるものがか弱い存在を支配するその構図に腹が立って仕方なかった。

その子は健康上の理由で牛乳が飲めなかった。その子は給食に出る牛乳を私にくれた。私はそれが嬉しくて彼女にホットケーキを作ってあげることにした。(ちなみに我が家のホットケーキや牛乳ではなく水で作っていた……)

 

一旦、家に帰って荷物を置いてから公園で落ち合うことにした。

私は家に帰り荷物を置いて手早くホットケーキを作ろうと思ったのだが……リビングのソファでぐったりとした母親が寝ていた。母親は私に気づくと鬼の形相で「帰りが遅い」と怒鳴り、私を殴った。

その頃、お母さんはひどく怒りっぽく、感情の起伏が激しいヒステリックな人になっていた。前は父さんから私を庇ってくれていたお母さんだったが、ここ最近は父さんと一緒に私を責めたて殴るようになっていた。けれど時間が経つと父さんの目を盗んで私の好きな月刊少女漫画りぼんを買ってくれたりドライブに連れていってくれた。お母さんのことがとても好きで、嫌いで、なんだかよくわからない。家に帰る車の中で私は「家に帰りたくない」の言葉を飲み込んだ。

 

そんな風に情緒不安定な状態にあったお母さんに捕まってしまった私は荒れ果てた部屋の掃除をして家事の一才を行った。ホットケーキを作ってあげるという彼女との約束を破ってしまった。私は泣いた。お母さんなんか大嫌いだ。そう思った出来事だった。

 

クラスの大人びた女の子と公園で会話している時、そろそろ帰る時間だねと立ち上がった彼女に私は「帰りたくない」と泣いた。「死にたい」と言ってまた泣いた。その子は私の話を熱心に聞いてくれた。

学校にある公衆電話から祖父母の家に電話をかけた。祖父母は私を心配してたびたび家に来てくれていた。けれども父さんは私を祖父母に会わせることを嫌っていたので居留守を強要された。家の電話線も抜かれてしまったし、私が約束を破ると学校で必要な教材を壊されたり取り上げられたりした。

 

祖父母はいつも私の味方だった。祖父母は当然、お母さんをも咎めた。けれども父さんと共依存状態になっているお母さんは祖父母に反発した。祖父母は私に「あんたのお母さんはダメな母親だ」と繰り返し言う様になった。私はお母さんのことが嫌いだったけど、その言葉を聞くたび、その話題になるたびにお腹が痛くなった。そのうちなんでもない時に心臓が痛むようになった。おねしょは毎日のように繰り返していた。

 

 

 

まだ子どもだった私が忘れてしまっていたもの、それはこの世界への希望と期待だった。

 

 

 

続く