善いことをしている“つもり”の時ほど、

人は残酷になる。


それに気づいたとき、

私は自分の善意が少し怖くなった。

 
 
 
 

善い行いならば、やるべきなのか。
今日はそんな問いについて、少しだけ言葉にしてみたい。

 

私たちはどうしても、自分にとっての「善いこと」を
他人にも共有したくなる生き物だ。

 

それが大きくなった結果が、
戦争だったり、差別だったり、
SNSでの誹謗中傷だったりするのだと思う。

 

「正しいことを言っているはずなのに、
どうしてこんなに苦しくなるんだろう?」

 

そう感じたことがある人は、きっと少なくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私にとっての善い行いを、いくつか挙げてみる。

 

 

・ゴミをポイ捨てしない
・目についたゴミは拾う
・むやみに他人の悪口を言わない
・祈る、調和を大切にする

 

……エトセトラ。

 

 

私は、ポイ捨てをしないし、
愛煙家ではあるが、路上喫煙もしない。歩きタバコなんてもってのほかだ。

 

でも、これを「他人もやるべきだ」とは思っていない。

 

目の前でポイ捨てをする人を見たときに湧く感情は、
正義感というより、正直に言えば「嫌悪感」や「忌避感」だ。

 

「私は、そうはなりたくない」

 

ただ、それだけ。

 

 

 

少し恥ずかしいけれど、
私は「ポイ捨てをしない私」「路上喫煙をしない私」が好きだ。

 

 

だから私は、自分の美学を守るために、
ポイ捨てや路上喫煙、歩きタバコを「悪」と認識しているのだと思う。

 

 

このことに気づいたとき、私はハッとした。

もしかして、

善い行いをしたいという感情そのものが、欲望なのではないか?と。

 

 

 

 

「私は綺麗にオシャレしている私が大好きだ!! 

強くあろうとする私が大好きだ!! 私は『釘崎野薔薇』なんだよ!!」

 

 

⇧ 呪術廻戦の登場キャラクター、釘崎野薔薇のセリフ。

釘崎野薔薇の名言は他にいくつもあるが、

群を抜いて好きなのがこのセリフ☺️❤️

 

 

 

 

 

生きること自体が、欲望だ。

 

生きたいから消費する。
生きたいから、命(食べ物)をいただく。


生きたいから、生きる。

 

 

それは同時に、
誰かの居場所を削りながら
自分の居場所を作ることでもある。

 

 

そう考えると、
「原罪」という考え方にも、私は一定の理解を示せる。

 

 

生きることは、
もしかしたら罪なのかもしれない。

 

でもこの世界は、
欲望や罪を抱えたまま人間が生まれ、
そして死んでいくための舞台装置なのではないだろうか。

 

 

その中で、自分なりの答えを探していくための、
最高のステージなのかもしれない。

 

 

 

 

 

だから私は、
自分にとって善いことを「善」だと確定しすぎないようにしている。

「これは善い行いだ」と思った瞬間、
それは自分が善い行いをしたいだけの欲望
という自覚から、少しずつズレていく。

 

そのズレに気づかなくなったとき、
人は正義を他者に押し付け始めるのかもしれない。

 

 

 

私ができるのは、
ただ自分の在りたい姿を体現し続けることだけ。

 

それが評価されれば嬉しいし、
評価されなくても構わない。

 

裏切れないのは、
他人でも、社会でもなく、
自分の魂だけだから。

 

魂に嘘をつかない生き方は、
きっと私を強くしてくれるし、
同時に、優しくもしてくれると信じている。

 

 

 

もしこの考え方に、
どこか心が少しでも動いたなら。

 

同じ旗を、
遠くからでも見てくれたなら。

 

無理に声を上げなくていい。
無理に繋がらなくてもいい。

 

それぞれの場所で、
それぞれの形で、
自分の魂を裏切らずに生きていけたら。

 

それだけで、
この世界は少しだけ、壊れにくくなる気がしている。

 

 

 

 

 

正しさよりも、誠実さを。
善よりも、在り方を。