先日読んでいた、
ニサルガダッタ・マハラジの言葉に、


〜以下引用〜


真実とは完全なるブラフマンだけで、
ブラフマン以外には何もない。
完全なるブラフマンの状態の中で、
『私は在る』という存在性の感触があり、
それとともに分離が始まり、
他者性が入ってくる。
しかし、この『私は在るという性質』はただの小さな原理ではなく、それ自身がムーラ・マーヤー、
つまり第一の幻想だ。
私がここで詳細に説明していることは普通の人たち向けではない。
なぜなら彼らは、私が言っていることを理解できるだけの精神的成熟に到達していないからだ。
それゆえ私は、
そういった人々にはバジャンやジャパや瞑想をするようにと言うのだ。
そうしたことをやったあと、浄化が起こったとき、彼らは私の話を受け取るにふさわしくなることだろう。


〜引用終わり〜



と。
言葉は違えど、ACIMでいうところの『赦し』、
マハラジも、下にリブログしたアンマもジャパと瞑想、

それが、

ACIM的にいうと、罪悪感の解消、
ヴェーダ的にいうと、カルマ救済法になると。


そしてそれは、


この幻想世界にもそれは影響し、
個人的苦難が回避される。



全て内側の投影なのだから、
説明がつく。


ゲイリーレナードも、
赦しを続けていく中で、事故というシナリオから救済されるというエピソードがあった。



私も知的理解は少しは進んだとしても、
まだ身体意識で生きてきる。



ということは、
非顕現から顕現が起きた時に生じた全ての影響をうけている。



この肉体に浸っている。



でも、
この理解が無ければ、
赦しも瞑想もしようという気は起こらなかったことを思うと、
私はこの理解をモチベーションにしていると、
はたと気がついた。



リブログ先でアンマは、
瞑想を無私の奉仕と。



前は瞑想に対してもよくわかってなかったなぁ。



これは備忘録として。