皆さま、おはようございます🌞

昨日の続きです。


柳田邦男さんの著書に

ウン十年ぶりにハマっております。

『生きなおす力』

少し抜粋させていただきます。




悲しみとの和解とは悲しみを忘れることではなかろう。

それは別の言葉で言えば、癒されるということでもあろうが、癒されることにしても、悲しみが消えることではない。


途中略〜


(親交のあった河合隼雄さんの論考を紹介しておられる)

「癒し」とは、決して心地良いものではないと思います。胸を掻きむしらんばかりの苦しみ、悲しみを抱え、そこから逃げずに必死に生きようとするその人生そのものが「癒し」だと思うのです。略〜

深い苦しみや悲しみには直面していかなくてはならない。略〜 逃げてばかりではことは進まない。


この後、柳田邦男氏は次のように続けたはる。

背負っている苦しみ自体に意味を見出したとき、苦難から解放される。

苦しみは、心を押しつぶすのではなく、心の奥行きを広げてくれるではないか。と。



深い苦しみを経験しても(させても)、自分で捻じ曲げたり、勝手に無かったことにしてしまう人がいる。

それを逃げというんだろう。

精神的に深い傷は、確かに逃げたなるほど生きる力を奪っていくけど、

傷の痛みにのたうちまわりながら対峙していると、そこに自分なりの『意味』を見い出せる日が、或る日ふっとやって来る。

そこから先の道はまだまだ険しく遥かに長いけれど、確かにそれは復活への足掛かりとなる。

自分の中の地獄から抜け出す第一歩でもある。

逃げた人には永遠に来ない経験だ。


逃げを選択した人は『卑怯』を自分に許したが故に、

その影に追われる生をおくることになる。

逃げても何も変わらない。

悔いが募るばかりだから余計に逃げるのかもしれない。


ただ、そういう人と接点を持ったとき、彼等にはどこか違和感がある。

思考の隅が粘着質のスライムみたいだ。

そして、どこか、恐ろし気な不快臭がする。

それが一時凌ぎの『卑怯』を選択した代償なのだと思う。

この、鈍い私でも分かるんやから、普通の人はもっと敏感に感じ取らはるやろね。

私は『卑怯』に対する耐性が無いから『卑怯』という苦渋の道を選ぶくらいなら、むしろ普通に苦しむ方がいい。

いや、それしか知らないんやと思う。


良書は、こんな風にいろいろ考える機を与えてくれる。

希釈されたHOWTO本にはそれがない。